2007年08月27日

ひとりの学校

『授業の出前、いらんかね。』山本純士著

著者は「出前教師」として、長期入院の中学生に向けた病院訪問教育のシステムを愛知でつくりあげた。愛知と言えば80年代の管理教育の代表的地域。やや癖のある教師が病院訪問教育に集い、学校教育とは根本的に違う方法論で、重い病に苦しむこどもたちの学ぶ活力そのものを引き出す。いわゆる「コーチング」の優れたテキストである。

 野球が大好きだったが、骨肉腫で左足を切断した宗一郎の病院訪問教育を行う。

教科書に触れることがないまま、学校に戻る日が続いた。授業を拒否するというような「積極的」なかんじではない。ただぼんやりとして、何を言っても気のない言葉しか返さないのである。

著者は気力のない子どもに勉強をさせようとはしない。雑談をして、一緒にゲームで遊びながら、ただ気楽に同じ時間を過ごすだけである。母親は著者に謝罪するが、著者は、宗一郎が勉強したくなる日が必ず来ると励ます。
 だが、私は気休めを口にしたわけではない。こどもたちは、大人よりもずっと逞しい精神の復元力を持っている。深い悲嘆に包まれたからといって、ずっと絶望の底に落ち込んでいるかといえば、そうでもないのだ。
 片足を切断したばかりの人間が、そう簡単に「元気」になったり、授業やリハビリに意欲的に取り組んだりするはずがない。宗一郎は今、こどもの思考力と認識の力では正確に言葉にできないような、絶望とか失意とか沈鬱といったものに包まれてしまった自分の気持ちを、なんとか元のように立て直そうとしているのだ。自分の心との折り合いを付けるために、彼には時間が必要なのだ。
 時間が、必ず宗一郎を励ます――。それは悲しみの淵に沈み込んでしまったようなこどもを数多く見てきた私の確信のようなものである。

 
ひとりはこどもの落ち込む気分に気持ちを重ね、もうひとりの教師は、「勉強が遅れてしまう」という焦りに依拠して生徒への対応を決めるのである。このような場合、ほとんど例外なく後者のやり方は破綻する。
 短い期間ならこどもたちは、「学習するのはあなた自身のためなのだ」という教師の訴えに納得する。病気への不安や治療の苦しさを押して、学習をすすめようとするのものだ。けれどそれは長くは続かない。徐々にそうした言葉に反応しなくなっていく。

 片足を失ったばかりのこどもに対し、学校や教師の「常識」を押しつけたり、学習せよと迫ることは、一見「責任を果たす」ようであるが、実のところは教師である自分がどう見られるかということを優先して考えているということであり、本当の意味での責任を放棄しているのだ。
 「病訪」を長く経験する同僚なら、宗一郎のような子に多彩な教師言葉を駆使して「勇気付け、励まし、動機付けをし、学習へのモチベーションを高める」などということは決してしないだろう。

 本当に自分の病気は治るだろうか。強引に理不尽に切断されてしまったそれまでの日常は、いつ戻ってくるのだろう。必ず元気になって元のような生活に戻る――そんな希望を抱きながらも、ふいに襲ってくる不安は膨らみ出すととどめることができず、悲観と絶望に包まれた未来しか見えなくなることだってある。
 そんなゆれる感情に翻弄されながら闘病生活に入ったこどもの待つ病室に、私たちは教師として出向き、自分と、言葉と、教材だけで迫っていく。焦れば、こどもたちは心を閉ざし、教師と授業を拒否する。
 週に一度か二度、それも短時間だけ訪れる私たちにできることは、安易な励ましを口にしたり、実感として感じられない「希望」を声高に語ることではない。(中略)
 結局のところ教師などというものは、こどもたちの内なる力に依拠しつつ、彼や彼女らに寄り添うことしかできないのだ――。


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2007年08月23日

アルフォンソ・リンギス「男」(『信頼』所収)

リンギスは、男の身体的特徴と勇気によって形成される「男くささ」について語る。そして誰かの男くさい勇気によって、自分のなかに勇気の脈動を感じることが信頼を生み出すのだ、と。
 男くささはあきらめによって失われる。アリバイを整えることによって。裏切りによって。
 そういう連中はいたるところにいる――だらしない身なりの自分に甘い郊外族が、テレビのフットボール中継の前に座っている。町の舗道には、灰色の肌に灰色の目をした背広姿の男がいて、その身体がほかの服をまとっているところはとても想像できない。四十歳になることには、彼はあきらめる。まだ人生は半分残っているのに、彼らはもう、自分が他の人間を魅惑することはけっしてないと決めている。
 あきらめは譲歩から始まる。それは安楽で始まる。すべての決断に安楽がひとつの要素として入り込むたびに始まる。道は暑いしほこりっぽいし、ガイドが提供するラバは足どりがおぼつかないという理由で、グランド・キャニオンを下る旅に出かけないときに始まる。言葉がわからず、食べものが合わないのがわずらわしいという理由で、イタリアやフランスにさえ出かけないときに始まる。わらを積んだ荷馬車に隠れ、夜闇にまぎれて帝政ロシアから逃げださなかったときに始まる。
 いかに多くの男にとって、家庭や職業の責任や、経済上の理由や、長期的な仕事の圧力が、アリバイとして機能していることか!たまたま遭遇した裸体に燃えあがらないためのアリバイ。好機の空高く舞いあがる、希望と危険という華やかな鳥を恍惚として見つめないためのアリバイ。彼が夏の仕事を引き受けたのは、万一、仲間がボロボロのバイクをうならせてやってきて、「地球の半分を旅しようぜ!」と誘われた場合に備えたからだ。彼があわてて結婚して子どもをもうけたのは、万一、仲間がこぞって叛乱に加わった場合に備えたからだ。いったいいくつの家庭や職業上の責任が、いつの日かアリバイとして機能させることを第一の目的として引き受けられたことだろう――偶然の機会に賭けなかった、情熱に身を投じなかった、正義のために戦わなかったアリバイとして!

人は自分を裏切ることで男らしさを失う。(中略)富と権力と名声を求める貪欲さのなかに、どれほどの臆病さが含まれていることだろう!自分のなかにある蔑むべき要素は、最終的には、すべてなんらかの臆病さなのだ。
 男らしさとは――だれからの侮辱も受けないということだ。それは同時に、ほかの人を侮辱せず、だれかがほかの人を侮辱するのも認めないということだ。


夏の仕事を引き受けた「彼」、あわてて結婚し子どもをもうけた「彼」。
「彼」は章の後半、著者から「きみ」と呼びかけられることになる。

同士たちはきみに「雄鶏(エル・ガリョ)」というニックネームをつけた。

「きみ」は好色だと思われていたが、女性について多くを語らなかった。
不正と少しでも多く戦う世界、それがきみが彼女たちに残す唯一の信託財産だったのだろう。

瀕死の祖母を数週間にわたって看病した経験から、「きみ」は医学を学んだ。
きみは医師だったが、開業したことも、治療代の請求書を書いたこともなかった。不慮のできごとによる厳しい一撃にやられた人に出会うと、かならず足を止めて傷を洗い、消毒して包帯を巻いた。毎回、戦闘が終ると真っ先にしたのは、倒れた敵の傷の手当てだった。

「きみ」が不正を見出し怒りを表したすべての土地で、「きみ」は大きな尊敬を集めている。
きみは十三歳ですでにランボーとフロイトを読んでいた。(中略)きみは新しい国のために五年間働くと書いた。政府の要職に就いたが、家族には一般の人々と同じものを食べさせた。(中略)そばに用意された魔法瓶のコーヒーに、きみはけっして手をつけようとしなかった。理由を聞かれると「全員の分には足りない」とぼそりと答えた。週末、きみは港やサトウキビ畑で一日十四時間働き、報酬は受け取らなかった。ともに働いた人々は、ときどききみを盗み見て、その気どらない輝きと、飾りけのないスタイルに、貧困と絶望に支配された彼らの暮らしに、偶然が投げかけた祝福を見た。

きみは大人の男になると、早々に国を離れた。権力の座はすぐに放棄してほかの大陸に出向き、男女が抑圧に苦しんでいれば、力と命を提供した。真の男はみな、人のほほを打つ一撃を、自分のほほにも感じなければいけないと述べた。あるとき、ひょっとして親戚関係にあるのではと思ったひとりの女が、家族のことをたずねると、きみは、この地球上のあらゆる場所にある不正に怒りを感じるなら、あなたは私の姉妹だと答えた。

著者の呼ぶ「きみ」は、かつてアルゼンチンに生まれた実在の人間なのに、もはや実在しない「男」という、架空の概念を一身に背負った象徴的存在として記録される。苦しい喘息の発作は生涯続いたが、死ぬまで「きみ」は男らしさを体現していた。
著者は最後の一行、「きみ」が地上に生きた時の名を呼ぶ。
われらがチェ、われらの仲間、われらの同士。
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2007年08月18日

宣長と秋成、小林と安吾

橋本 だいたい、漢意とやまとごころという概念は、それを言い出した本居宣長が、いろんな方面からせっつかれた末、自分のありかたを守るために言い出した防御の言葉なんじゃないか、という感じがしているんです。じゃあ、漢意とやまとごころをどう線引きなさるんですかと突っ込まれた時に、宣長はちゃんと答えたのか、答えたとしてもそれが正しいかどうかは分からないんじゃないかと思ってしまう。それよりも重要なのはやまとごころと漢意という概念を出してきて、それで本居宣長が守りたがっていたものは何なのか、ということなんですけど。
浅田 本居宣長に対して上田秋成が、オランダわたりの世界地図を見て、日本というこんな極東の島国に太陽神が降臨したなんてありえないとか、子どもみたいにストレートな議論をする。それに対して宣長が、いや、そういう言い方そのものが漢意なので、素直に古事記と向き合うということが君にはわかっていない、などと言う。橋本さんの言われるように、すごく屈折したディフェンスというか……。
橋本 それ以前に、宣長に人に説明しようという気がないんだと思う。だって、あれで分かれというのは無理ですよ。
浅田 小林秀雄と坂口安吾に「伝統と反逆」という有名な対談がある、あれも同じような構図でしょう。案後は子どもみたいにストレートなことを言う。小林の骨董趣味を批判する一方、小林の評価する梅原龍三郎なんて「奇形児」じゃないか、と。それに対して小林は「奇形児」といえば「奇形児」かもしれない、しかし、それは日本で洋画を描くことからくる宿命なので、その意味では「奇形児」でいいじゃないか、と。それで「奇形児だって遂に天道を極める時が来るのかも知れない」なんて強弁するわけです。僕自身は、上田秋成や坂口安吾のように突っ張るべきだと思う。だけど、彼らが相手にしている本居宣長的あるいは小林秀雄的な構造というのがものすごく強力なものだし、いまも持続しているということは、きちんと見なければいけないと思うんです。
橋本 多分、私は坂口安吾や上田秋成の言うことのほうがよく分かり、小林秀雄や本居宣長の言うことのほうが分かんないんですよ。ただ、小林や宣長が何を問題にしていたのかは分かる。分かるんだけど、その分かることをこっちに分かるように説明してくれないかというのがあって、彼らがその言語を持ち合わせていないのか、その必要を持ち合わせていないのか、多分両方だと思うんですけど、結局それはまだそんなにオープンになれない時代のせいなのかなあと思うんです。だって普通に考えれば変じゃないですか。江戸も京都も好きな宣長が、音曲が花盛りの時代に、なぜ和歌だけがいいとしたのか。そういうところで、宣長がたまたま和歌が好きだった、ということではないんで悪いんだろうと考えちゃうんですよ。

「新潮」2007年8月号での橋本治と浅田彰の対談「日本美術史を読み直す」より)
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2007年08月15日

黙祷と凝視

 私はひとりになった。静かに涙が溢れて来た。反応が遅く、いつも人よりあとで泣くのが私の癖である。私は蝋燭を吹き消し、暗闇に坐って、涙が自然に頬に伝うのにまかせた。

 私は人生の道の半ばで祖国の滅亡に逢わなければならない身の不幸をしみじみと感じた。国を出る時私は死を覚悟し、敗けた日本はどうせ生き永らえるに値しないと思っていた。しかし私は今虜囚として生を得、その日本に生きねばならぬ。
 しかし慌てるのはよそう。五十年来わが国が専ら戦争によって繁栄に赴いたのは疑いを容れぬ。して見れば軍人は我々に与えたものを取り上げただけの話である。明治十年代の偉人達は我々と比較にならぬ文化水準の中で、刻苦して自己を鍛えていた。これから我々がそこへ戻るのに何の差支えがあろう。

 小屋は静まり返っていた。奥行十間ばかり、両側に並んだベッドに不慮はただ長々と横たわり、黙って天井を見凝めていた。
 その時彼等の考えていたことは、それぞれ異なるであろうし、無論一傍観者の推測を超えている。しかし私はほぼ彼らが何も考えていなかったと信じている。例えば私は彼等の中で泣いた者が、極く少数の感傷家にすぎなかったのを知っている。しかもそれさえ俘虜だからこそ泣く余裕があったというだけの話である。
 日本降伏一時間後の、これら旧日本兵士の状態は要するに無関心の語に尽きる。「祖国」も「偉大」もこの黙って横たわった人々の群に比べれば、幻影にすぎない。

大岡昇平『俘虜記』
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2007年08月07日

戦争を読む

加藤陽子著『戦争を読む』は日本近代史関連本を緻密に読み込んだ書評集。

ピーター・ドウス、小林英夫編帝国という幻想―「大東亜共栄圏」の思想と現実の「序章 想像の帝国」(ピーター・ドウス)を評して
(@)列強の圧迫から日本の独立を達成するという被害者意識からの発想、(A)「東アジアの共同体」の一員であらねばならないという発想、(B)進歩を抑えがたい歴史的力とする発想などが、帝国建設の際に理想型モデルとして引照されるであろう「想像された帝国」像をつくるのに影響を与えたと分析している。結論がおとなしい印象を与えるのは、引照される例がすべてヨーロッパの帝国主義国のそれだからであろう。しかし考えてみれば、十九世紀終わりから二〇世紀初頭にかけて、方法は異なるし洗練の度合いも異なるが、アメリカと日本が国際環境の中でやっていたことは実は近似している。日米のパターンも、比較されてしかるべきなのではないだろうか。「想像された帝国」ということでいえば、「東亜の安定勢力としての日本」を日本人が語る場合と、モンロー主義をアメリカ人が語る場合とを比較するような視点がなければ、結論はいつでも日本特殊論に収斂してしまうように思える。


臼井勝美著『満洲国と国際連盟』を評して、
満州国財源についての記述は有益である。乱暴ないい方をすれば、広大な領域が関東軍程度の軍事力で傀儡国家化が可能であった理由の一半は、膨大な海関・塩税などの間接税を財源とできたことにあったと思われる。例えば侵略者が、日本の地租のような直接税を徴収しなければならない場合の困難さを想起すれば、その意義の大きさがわかるだろう。財源のほかに重要なのは、その使いみちだが、それまで地方財源の少なからぬ部分が奉天軍閥の軍事費に費消されてきた。清朝復活をはかる復辟派や、自治政権として安定をはかりたがっていた保境安民派の支持がえられるかどうかも、結局はこの軍事費分を日本がどうするかにかかっていたのではないだろうか。とにかく、満州国の成立を論ずるときに、財源と軍事力に目を向けさせたのは大事な功績である。


安井三吉著柳条湖事件から盧溝橋事件へ―一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗を評して
いったん戦争が始まったが最後、際限のない戦線拡大は日本軍のお家芸だという先入観がどうしても我々にある。また、中国側の避戦・持久戦方針もあって、日本は底なしの泥沼に引きずり込まれたとのイメージも強い。だが、なぜ日本側が満州国ではなく、華北をも支配下に置かねばならないと考えたのか、当事者たちにとっての内在的切迫感がこれまでの研究からはよく理解できなかったのである。その切迫性を理解できなかったので、我々はそれを現地機関の好戦性や暴走に帰してきたように思う。本書は、こういった、自覚せざる思考の袋小路を読む者に気づかせ、それに対してきちんとした説明を与えようとした。本書の最大の貢献はここにある。
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2007年08月03日

北風と共存する

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『国家情報戦略』(佐藤優と元韓国海軍少佐コウ・ヨンチョルの対談)によれば、

 これからの大統領選挙でも、北朝鮮は何らかの事件やイベントを起こして占拠に影響を与えようと工作する可能性があります。あるいは逆に、急に南北和平工作を行うかもしれません。たとえば、「金正日が南北鉄道に乗ってソウルを訪問」――などというサプライズがあれば、韓国の世論は一気に反米、親北、民族主義に傾くはずです。(中略)
 北朝鮮に敵対する保守勢力や右派陣営の力を削ぐための心理工作としては、とても効果の高い作戦になるはずです。逆に、保守や右派の候補者が大統領になる可能性が高いとなれば、別の心理工作を選択することも考えられます。(中略)
 「北風」と呼ばれる工作です。たとえば、三八度線をはさんだ南北の休戦ライン付近で、北朝鮮が韓国に対して銃撃します。当然、韓国の国民世論は、一気に「北朝鮮はたちの悪い『ならず者国家』だ」という流れになるはずです。このように韓国世論を挑発することによって、保守系や右派の大統領が望ましいという雰囲気にしていくわけです。
 その結果、北朝鮮に敵対する保守派の大統領が当選した時、その大統領は「自分が大統領になれたのは、北朝鮮が銃撃してくれたおかげだ」と考えるようになるはずです。そして、金正日への恩返しということで人道的支援や経済援助を行う――北朝鮮はそこまで考えて高度な工作活動を展開する可能性があると見るべきです。

自己に敵対する人物が権力を得ようとしており、しかもそれが不可避である場合、その人物を失墜させる工作よりも、あえてわかりやすい敵を演じることで彼に欠かせない存在となること。そして依存度を徐々に高めて共存関係を構築すること。その結果、敵対する両者が、互いの協力・支援を必要とする互恵関係を育む。
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2007年07月17日

ディシプリン

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天皇陛下がロンドン・リンネ協会で行った講演「リンネと日本の分類学」の抜粋が、「Nature」7月12日号に掲載された。秋篠宮殿下、昭和天皇はじめ皇族における生物学・植物学研究の命脈は思いのほか強固であり、それが戦前においては神と元首、戦後においては象徴という、いずれにせよ非科学的な機能を担ってきた皇族の内で受け継がれてきたことが興味深い。

小石川植物園は、元来江戸幕府の薬園(薬草園)であった。
薬園が、そこに植えられている植物はほとんど変えず、維新後10年足らずの期間で、急激に植物園になる。治療のための本草学から、分類を試みる博物学、そして生命の真理を追究する生物学へと一挙に進展していく経験は、日本の近代化の特質を端的に表していると松浦寿輝はいう。(「明治の表象空間」新潮8月号)

言葉と物』におけるフーコーのシェーマに従うなら、十九世紀初頭、西欧ではすでに「古典主義時代」は終りを告げ、キュヴィエの言説の出現とともに博物学から生物学への「エピステーメー」転換が始まっている。幕末期の日本では、リンネの高弟ツュンベルクや、そのツュンベルクの『日本植物誌 Flora Japonica』を日本に伝えたシーボルトなどを経由し、リンネの分類秩序が徐々に導入され、本草学の博物学化がゆるやかに進行していたが、その間、当の西欧ではもうすでに博物学の言説自体が過去のものとなり、生命そのものを問題化する生物学の時代が始まっていた。
 従って、小石川薬園が未だに「薬園」のままにとどまっていた明治初年の日本の植物的な知には、二段階のキャッチアップを同時に行うという慌しい責務が課されることになった。まず第一に、本草学の残滓を一掃し、博物学の知の体系を整備しなければならない。その手始めとして要請されたものこそ、「薬園」の看板を「植物園」に掛け替える作業にほかならなかった。だが、それだけではまだ足りない。明治の植物学者は、記載と分類による一覧表作成という博物学的身振りから離脱し、顕微鏡を駆使しつつ細胞レベルで生命の謎を探るという近代生物学の冒険に乗り出さなければならなかった。(中略)
 明治初頭の十年間に、この薬園がまず病院と医学校、それから博物局へ、さらに東大理学部へと次々に所属を替えていった過程は、本草学から博物学へ、そして生物学へという「ディシプリン跨ぎ越え」の運動がこのとき一気に進んだことの、凝縮された表現だったとも言える。(中略)
当時の文部行政の責任者たちは、これから日本が植物をめぐっていかなる知的営みを行うべきかに関して、聡明で適格な展望をもっていたのである。

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2007年06月02日

不即不離

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文楽での人形、太夫、三味線による「三業一体」とされる関係は、まさにビル・エヴァンズがピアノ・トリオで志向したインタープレイのようだ。伝統的な役割によるヒエラルキーを相対化して、三者は主従関係を持たず対等な演者として、シンクロしないまま主調に合わせそれぞれがアドリブを奏でる。互いが絶妙な距離感を保っており、観客は、三者の独立した関係のなかでも、演者同士があるイメージを共有していることを次第に知る。統制と自由、調和と混沌。観客の想像力を加えた四者の不即不離の関係を通じて、表現が立体的になる。

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文楽三味線の第一人者、鶴澤清治の言葉は、伝統と進歩、老成と早熟といった一切の関係を相対化する芸能の究極を知った者だけの地平がある。(「芸術新潮 2007年6月号」

「とにかく遡らなければならないと思っているんです。師である鶴澤清六師匠、竹澤弥七師匠の演奏は、いまレコードで聴いてもなぜこんな風に弾けるのかと見当もつかないような素晴らしいものがたくさん残っている。そこに可能な限り近づきたいというのが、僕の信条です」

「糸を押さえる場所、ヴァイオリンで言えばポジションに当る部分を、勘どころと言います。僕などでもそうなのですが、これが年々平均律化してきている。ですが三味線において音の高低は必ずしも絶対的なものではなく、相対的であるべきなんです。またリズムがイン・テンポになっている。たとえばチリチチテン、というフレーズがあるとして、これをチリ・チチ・テンと弾いてしまったら、大変幼稚に聞こえるわけです。そこで間を詰めたり延ばしたりしてひずみを作るのが『芸』というもの。文楽は伝統芸能の世界では唯一世襲制ではありませんが、こうなると子供の頃から文楽に囲まれた環境で育つことのできる世襲の方が、かえっていいのかという気もしています」

「歳をとるに従って、人間のテンポは自然と遅くなるものです。だから下の者への指示も『ゆっくり』ばかりで、最近では演奏時間がどんどん延びている。僕は(13年間コンビを組んだ竹本)越路師匠に『君はハヤ間やからな』とよく言われましたが、同じ内容を伝えられるのなら、10秒より8秒の方がいい、という考え方なんです。弥七師匠なども『下手な太夫は、思い入れ(余韻)があってから次の台詞にかかる。上手な人は同時進行でやる』とよく言っていました。要は余韻の間を取ることと発声が別々になって、時間が余計にかかってしまうんです」
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2007年05月22日

シナトラとの昼食

シルヴィオ・ピエルサンティ著『イタリア・マフィア』は、邦訳が少しこなれておらず、わかりにくい文章や表現が少しあるのは残念だが、イタリア・マフィアの勢力と恐怖をエキサイティングに伝えてくれる。

世界中どの裏社会にも独自のルールがあるが、イタリア・マフィアは売春とギャンブルは「名誉ある男」として行わない。(アメリカ・コーザノストラはこれらで大金を稼ぐ。二つの組織は連携しているので、決して無縁とは言えないが)。
イタリア・マフィアは、政界(首相まで)、財界(銀行頭取まで)、司法、警察、バチカン、フリーメイソンに強いコネクションを持っており、ほとんど逮捕・有罪となることがない。マフィア撲滅を目指す検察官、警察、ジャーナリスト、宗教家はことごとく家族ごと殺害されてきた。

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1963年アメリカ・コーザノストラの庇護のもとで全米一の人気歌手となった"The VOICE"フランク・シナトラは、アメリカ・マフィアの大使としてシチリアに送り込まれる。それもシチリアのボス、ドン・ジェンコには全く効果がない。そのシーンは本書中饗宴と恐怖を同時に提供するマフィアの美学を端的に表している。
ドン・ジェンコは約束に2時間半遅れ、謝りもせず手を伸ばす。「シナトラは膝まずき、大ボスの毛むくじゃらの手にキスをする」。すぐにボスは立ち去り、シナトラは愕然とする。部下が「明日、いつ大ボスに謁見できるか知らせます」と言う。そして二日後の昼食に招待されるという有様だ。
ドン・ジェンコの屋敷についてシナトラはまたしても一時間待たされるが、もちろんその詫びは一言もない。
空の皿に、銀の勺で料理が盛られる。決まって最後がシナトラである。マフィアの伝統的なしきたりなのだ。ゲートインした競走馬がレースのスタート合図を待たされている時のように、ボスが食べ始めるのを皆が待つ。ボスが一口目を口に入れると同時に全員が同じように食事を始める。何分間かは食べる音だけが聞こえ、誰も話をしない。
 美味だったことを表す儀式として、お皿に残ったソースをパンですくって食べる。これもボスが始めると同時に全員がまねをする。自家製の大きなパンを左手で胸の前に持ち、右手でズボンの右ポケットから自分のジャックナイフを出し、一切れを胸の方向に切りおとす。次に左側の人にパンをまわす。その人もナイフをポケットから出してパンを切る。パンがシナトラにまわってきた。シナトラは赤面して、パンをどうしてよいかわからずにいた。彼は普段ナイフなど持ち歩いていなかったのだ。全員が信じられないという様子でシナトラを見た。“名誉ある男”がジャックナイフひとつ持っていないなんて、ロビンフッドが弓を持っていないか、三銃士が槍を持っていないかという事態だ。目をつむれないことである。「うんざりする奴だ」と年配の男が若者に冷たく教える。
 ドン・ジェンコは給仕に「ドン・フランチェスコにナイフを」と命令する。“ドン”(尊敬の意)をつけてナイフも持たない男を皮肉った。これは最高の冷やかしである。嵐のような笑いを誘った。食事は子羊のロースト、アーティチョーク、チーズ、シチリア名物のカンノーリ(リコッタチーズの入った菓子)、カッサータ(アイスケーキ)などのデザートと続いた。ドン・ジェンコのブドウ畑で作る15度から16度のアルコール度の強いワインと一緒に食された。
 会話は、最近の殺人罪のことや、政治家の“友人”の手助けで行った違法な入札についてだった。ボスは上機嫌のように見えた。フランク・シナトラは屈辱を受け、仲間はずれにされていた。ボスは彼に一言も声をかけず、食事が終るまで完全に無視した。最後にテーブルから立ち上がったボスは、突然厳しい口調でシナトラに、「それで?」と訊ねた。ジョン・ケネディ大統領の個人的な友人で、ハリウッドスターのシナトラ。何百万人ものファンをかかえ、世界中の美しい女性が彼の足下にひざまずき、アメリカのコーザノストラの大ボスから大使として送られてきた男、高圧的で喧嘩好きの男が、一言も答えられなかった。
 ボスの質問は一言だったが、多くの意味合いが含まれていた。「それで、誰がボスだかわかったか?それで、本当の“名誉ある”男がどんなものかわかったか?それで、自分たちがビジネスの仲介にきた男をどのように扱うかがわかったか?それで、ここではアメリカの監視は必要ないことがわかったか?もし来たかったら来てもかまわないが、指揮をとるのは俺たちだ。それについて異存はないな?」
 実に明白だ。シナトラは同意しうなだれる以外にはなかった。

すぐに旅支度を整え、シナトラはニューヨークに帰る。


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2007年04月28日

喝采

カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介著(幻冬舎新書)

ベルリン・フィルの首席指揮者をめぐる、フルトヴェングラーカラヤンチェリビダッケの権力闘争の記録ではあるが、ナチスドイツにおける芸術家の身の処し方についてのレポートとして魅力がある。
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フルトヴェングラーはナチスに協力するのを終始拒み続け、党員にもならず、ユダヤ人音楽家の支援も行ってきた。それでも優柔不断な性格ゆえ、いくつかのナチスの重要な公演で指揮することとなり、また戦中亡命しなかったために「ナチスの指揮者」として戦後の海外での活動に大きな支障をきたす。反ナチを明確に表明していたトスカニーニと比べて、あまりにもナチスとの距離が近かった。

一方でカラヤンはナチス党員であり、反ナチ活動とは縁遠い存在であったのだが、フルトヴェングラーに嫌われたためにナチス政権下で重要な公演を指揮しなかった。また、偶然にもユダヤ人クオーターの妻がいたために、「ナチスに干されていた」という戦時中のストーリーを作ることに成功する。

本書は音楽について、また彼らの才能について、ほとんど触れていない。もっぱら彼らの戦前戦中戦後の政治的な動きを丹念に追っており、その点は音楽史の本とは趣が異なりユニークだ。
指揮者は演奏家ではなく、一人で音を出すことができない。優れたオーケストラを振らなければ、優れた音楽を生み出すことができない。ベルリンフィルの首席指揮者になることは歴史に名を残すための必須条件である。また、オーケストラの統率者である以上、音楽能力だけではなくリーダーシップが強く要求される。そこでオケ内外の「政治」に関わらずに音楽活動をすることは不可能だ。いきおい彼らの行動は政治的にならざるを得ない。

なぜフルトヴェングラーはカラヤンをことのほか排除しようと努めたのか、という最も重要な問題には、本書は直接答えてはいない。もちろんカラヤンの才能を妬んだという解釈が真実に一番近いのだろうがフルトヴェングラーの執拗なカラヤン排斥の動きには、それ以上の暗さがある。

1937年ザルツブルグ(反ナチの砦と認識されていた)で、
トスカニーニは、「貴方はナチだから、出ていきなさい。党員ではなくても、ドイツにいる以上、ナチです。今日の政治情勢では、奴隷化された国と自由の国の両方で同時にタクトをとることは芸術家として許されません」と、二者択一をフルトヴェングラーに迫った。フルトヴェングラーは彼なりの論理で反論した。
「この音楽祭のために、貴方が活動してくれるなら、私は喜んで、二度と来ません。貴方にまかせましょう。しかし、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと私は考えます。ワーグナーやベートーヴェンが演奏される場所では、人間は自由なのです。私が偉大な音楽を演奏し、たまたまそこがヒトラーの支配下にあったとしたら、それだけで私はヒトラーの代弁者となるのでしょうか。偉大な音楽は、むしろナチの無思慮と非情さに対立するものですから、私はヒトラーの敵になるのではないでしょうか」(中略)
これが二人の最後の対面であり会話だった。

カラヤンはレコードというメディアの本質を見抜いていた。
レコードを認めながらも、それを充分に活用できなかったフルトヴェングラー。レコードを認め、それを充分に活用できたカラヤン。そして、レコードを認めなかったチェリビダッケ。フルトヴェングラーだけが、悩み苦しむことになった。彼はどうすればいいレコードがつくれるかは分かっていた。しかし、そうしようと思えば思うほど、空回りしててしまった。そこに、それを何の苦労もなくやってしまう若い指揮者が登場した。これからはレコードの時代だという認識があればあるほど、フルトヴェングラーはカラヤンに脅威を感じたのだろう。

カラヤンはレコーディングはコンサートのためのリハーサルだと考えていた。レコーディングのためとなれば、オーケストラも何度もリハーサルを繰り返すことをそう嫌がらない。しかも、費用はレコード会社が負担する。一石二鳥だった。

リンツのブルックナー管弦楽団の音楽監督であるヨッフムが戦地に送られ、カラヤンが後任になりそうだとわかると、フルトヴェングラーはゲッベルスに電話し、ヨッフムの召集を取り消させる。
ナチ政権下のドイツで、フルトヴェングラーの世話にならなかったユダヤ系音楽家はいない、とまで言われている。確かに、そのとおりかもしれない。彼は多くの音楽家を救った。それだけの影響力を持っていた。そして、時には、その影響力を、気に入らない若い指揮者を排斥するためにも行使した。

戦後、カラヤンの復帰はフルトヴェングラーによってことごとく阻止される。
戦前よりも事態は深刻だったことにカラヤンは気づかなかった。あの当時のフルトヴェングラーはドイツの誇る世界的指揮者として、圧倒的な権威と権力を持っていた。それに比べればカラヤンは将来有望な若手指揮者でしかなかった。あらゆる面において、カラヤンはフルトヴェングラーのライバルではなかった。ライバルだと思っていたのはフルトヴェングラーだけだったのである。二人はあまりにも格が違った。だが、ドイツの敗戦により、二人ともすべてを失った。その意味では、二人は同地点に立っていた。ともにゼロになったということは、フルトヴェングラーのほうが失ったものは大きかったのである。フルトヴェングラーが焦るのも無理はなかった。今度は本当にカラヤンに蹴落とされるかもしれなかった。それは何としても阻止しなければならない。フルトヴェングラーは本気だった。互いに演奏し、その演奏の質によって、芸術的に圧倒的勝利をおさめるという機会が失われた今、フルトヴェングラーにできることは、カラヤンから演奏の機会を奪うことしかなかった。

それでもフルトヴェングラーはベルリン市民に愛されていた。優柔不断さの結果ではあっても、亡命しなかったこと(カラヤンもそうだが)もその一因だった。亡命した音楽家は「辛い時期に自分だけ逃げた」と、ベルリン市民からの嫉妬混じりの非難を受けた。
フルトヴェングラーの復帰コンサートは、戦後の焼け跡で行われたが、家財道具を売ってもチケットを求めた市民が大勢いた。フランス人にとっての料理のように、ドイツ人にとっての音楽は政局がどうであれ守らなければならない威厳であった。
同時に、アメリカのメディアは、反ナチではないフルトヴェングラーを歓迎しているドイツ人は何も反省していないのではないか、と報じている。(トーマス・マンの娘エーリカ・マンがヘラルド・トリビューン紙の特派員として書いている)

それでも音楽界に多くの混乱を招いたの原因は、フルトヴェングラーの人間理解の浅さと優柔不断さにあった。

例えば彼はヒトラー政権下で多くのユダヤ系音楽家に、ベルリン・フィルと競演するよう依頼した。彼としてはヒトラー政権に抵抗しているつもりだったが、音楽家達は(17歳のメニューインでさえ)、ユダヤ人がヒトラー政権を承認している証拠として利用されることを予測し、その招聘を拒絶した。フルトヴェングラーにはそれがわからなかった。

ベルリンが分割統治されている状況で、政治に巻き込まれたくないフルトヴェングラーは、ベルリンフィルの首席には戻らずチェリビダッケと仕事を分け合うという失敗を犯す。

ひとつの組織に二人の「長」がいれば混乱以外の何も生まない。二人のあいだによほどの信頼関係がなければ、うまくいくはずがない。(中略)オーケストラの内部に、それぞれを支持するグループができ、さらにはベルリン音楽界全体にそれがひろがっていくのは、時間の問題だった。ベルリンという街は、かつてフルトヴェングラー派とカラヤン派とが、ゲッベルスゲーリングのそれぞれの代理戦争をしたところなのだ。チェリビダッケはあまりにも人間関係に疎かった。フルトヴェングラーは、もっと疎かった。

ベルリン封鎖のニュースを知ると、フルトヴェングラーは、七月に予定されていたベルリン・フィルとのコンサートをキャンセルしてしまった。交通事情が悪化しているから行けない、というのだ。ベルリンの窮状を知って駆けつけ、オーケストラと、そしてなによりも市民を励ますことを期待されていた彼は、その正反対の行動をとった。キャンセルを伝える手紙には自分の「臆病さをご理解いただきたい」とあった。だが、理解するものは少なかった。ヴァイオリニストのユーディ・メニューインは、西側連合国が確保した空路を使い、約束どおりベルリンに来ていた。フルトヴェングラーの身勝手さがより顕わになった。

50年代に入るとカラヤンが反撃に出る。カラヤンは、フルトヴェングラー以上に、全てを手に入れなければ気がすまない、独占欲の塊であった。

1950年、フルトヴェングラーが2年間練り上げたウィーン・フィルの《魔笛》を、カラヤン指揮で秘密裏にレコーディングした。
確かにカラヤンは強くなった。しかし、皮肉なことにカラヤンに力をつけさせたのは、他ならぬフルトヴェングラーだった。彼のカラヤン憎しの思いは、多くの人びとに戸惑いと反感を抱かせてもいた。そうした人々の思いがカラヤンを後押ししていたのだった。

そうしてウィーン交響楽団、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団ミラノ・スカラ座バイロイトを手中に収める。それでもカラヤンには足りなかった。
(バイロイトにドイツ首相が戦後初めて出席したのが2003年。小泉首相がオペラを観たがり、その出迎えという大義名分でやっと実現した)

フルトヴェングラーの死後、ベルリン・フィルのアメリカ公演を引き受ける代わりに、終身契約の首席指揮者に就任することを強引にねじ込むことに成功する。

歴史の常であるが、新たな帝王は反対勢力を一掃する。カラヤンはアメリカで握手を拒んだユージン・オマンディをザルツブルグ音楽祭から追放した。

特筆すべきは400回を超える公演で戦中戦後のベルリン・フィルを支えたチェリビダッケをベルリン・フィルの歴史から抹殺したことだ。
たとえば、来日公演のどこにも、その名はなかった。カラヤンのチェリビダッケに対する態度は、どこかスターリンのトロツキーに対するそれに似ている。かつてのソ連においては、百科事典にトロツキーの名前すら載っていなかったというが、同じことがドイツ音楽界では起きている。

指揮者たちの果てしない権力闘争の原動力は何か。その一つは、その麻薬のような「喝采」である。
この「喝采」を一度味わってしまったもので、これと縁を切れた者は、音楽史上、グレン・グールドだけである。
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2007年02月20日

指紋

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ナバホ・インディアンの神話に、指紋は風だという考え方があります。頭のつむじも風。人間というのは風の容れ物であって、風が吹いてくることによって命が吹きこまれる。そういう思想ですね。しかも非常に楽しいのは、手足に指紋があって、うずまきがあることによって、人間は空にもつながることができるし、地面にもつながることができる。これがなかったら両方ともつるつる滑ってしまって、つながることなどできないし、立つことすらできない。『ホノルル、ブラジル―熱帯作文集』管啓次郎著


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2007年02月04日

底抜けの元気

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井口時男は、死刑囚永山則夫の日本文芸家協会入会拒否事件を契機として、同会を脱退した一人であった。筒井康隆、中上健次、柄谷行人が先に事件に抗議し脱会していたので、四人目ということになる。

永山の死刑執行を聞き、「茫然と」して書かれた文章はこう結ばれる。

永山氏の通信の書き出しには、決まって、「こんにちは! その後お元気ですか。がんばっておりますか。」と書かれていた。永山氏の元気は底抜けの元気だった。ほんとうに底がない、つまり何も支えてくれるもののない場所での元気だった。私はもう、この底抜けの元気を思い出さずには「元気」という言葉を使えない。
『暴力的な現在』所収)
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2007年02月01日

路地から島へ

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四方田犬彦の『月島物語ふたたび』は、あの『月島物語』の続編かと思えば、いくらか加筆した再販ということ。
工作舎の事務所は月島にあるようだし、いい造本である。

月島をめぐる群像として、底本ではきだみのると吉本隆明が取り上げられているが、新版では新しいエピソードも加えられている。
わたしは最晩年の種村季弘が、真鶴に本宅があるにもかかわらず、西仲商店街の古色蒼然たる交番のわきのアパートに小さな隠れ家をもっていたことを思い出した。池袋の二業地に生を享けたこの文学者は、やはりどこかで都会の紅塵のなかに生きることを求めていたのだ。どこかで会ったとき(それは彼の死の二年ほど前のことだったが)、「ほら、焼き鳥屋とスーパーがあるだろ。あの上だよ」と、彼はいかにも悪戯っぽく、場所を説明してくれた。あそこは昔は映画館だったんですよと私がいうと、「そうだろうな。あの横幅の広さはそうだろうな」と納得してくれた。種村さんは生涯に転居を十数回重ねた文学者だったが、後にした場所がどのように荒廃しようとも、いかなる変容を体験しようとも、それをめぐる感傷をみずからに禁じていた人だった。おそらく東京大空襲と戦後闇市での体験が、まだ少年であった彼に、事物の消滅をめぐる強靭な諦念を植え付けたのだろう。永遠に遠ざかってしまったものに関しては二度と振り返ってはならないというのが、彼の一貫した信条であったような気がする。

月島は下町ではないと著者は繰り返し主張する。
護岸という目的のもと築かれた月島はわずか100年の歴史しか持たず、現在再開発を複雑な思いで眺めている月島の住民も、100年前の新入居者であったということだ。著者は感傷とノスタルジーに依拠してゼネコンの再開発を批判しようとはしない。その目まぐるしい変化の行く末をしかと見守りたいといった様子である。

92年に著者はこう書いていた。
明治の富国強兵政策と立身出世の野望が作りあげたこの町は、現在ノスタルジアの格好の対象となり、同時に湾岸再開発計画の目的地とされてしまった。近い将来に何もかもが大きな変化を体験することは目に見えている。そうした危機的な時間のなかにあって、わたしは路地の視点から日本近代と呼ばれるもののひとつの側面を描いてみたいと考えてきた。国を愛してはいけない、国はいずれ滅びるか。町を愛してはいけない、町はいずれ滅びる。口を衝いて出てくるのは亡命先でブレヒトが作った座興歌の一節である。だがわたしはといえば、たとえ町がポンペイのように一日にして崩れ果てようとも、その日まで玄関先の金魚蜂に餌を撒き、格子戸に這う朝顔の蔓の具合を確かめるような凡庸な生活者でありつつ、路地の視座を保つ批評家でありたいと願うばかりである。

2006年の補遺では、吉本隆明の詩(「佃渡しで」)から、島の視座を読み取っている。
向こう岸で生じている悲惨の数々を、水という隔たりのもとに観察し、冷静に分析すること。それはときに強い閉塞感や無力感を観る者にもたらすとともに、考えようによっては人を隔たりそのものへの思考へと誘うものではないだろうか。

路地の視座から島の視座へ。
本書は、一人の知識人が十数年、世界を旅したことによって生じた変化を、「月島」で定点観測できるというユニークな書物である。
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2007年01月27日

日本しんぶん

『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』魚住昭による佐藤優へのインタビューだが、佐藤が獄中で思索を深めた独自のナショナリズム論を、魚住に解説するという体裁の本。

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終戦後、シベリアに抑留された日本人の多くが「スターリン万歳」へと転向した。そのことを日本人の「個を失った集団主義」の発露だと考える魚住をたしなめるように、佐藤は日本人の天皇観の一つの現象を論じる。

抑留者に対してソビエトは思想教育を施しましたよね。今般の戦争の評価について、一般将兵は一生懸命戦ったのに、指導層が腐敗していて個別利益の追求しかしていなかったと。うんと乱暴な言い方をしますが、日本の指導層が教えた八紘一宇は“まことの原理”に悖るものだった。本物の八紘一宇はプロレタリア国際主義という名前なのだと。抑留された将校たちが『日本新聞』を発刊しますよね。あれはソ連側の暴力や強制によるものではありませんでしたね。(略)
 当時の日本共産党中央委員会機関紙「アカハタ」と比較するならば、『日本新聞』はおとなしい、客観報道を重視する新聞です。そこではソ連が主導する国際共産主義は平和、民主化を徹底するものだということが強調されています。ソ連はその世界観をスターリンという個人に集約した。多くの抑留将兵の目にはその大義名分が正しいものに映り、スターリン万歳に転じたんんだと私には見えます。(略)
スターリン万歳をしたほうが、パンを多くもらえるから転んだというふうに、卑近なところで整理してしまいがちですが、彼らの内在的論理はそんなに単純なものではなかったと思います。日本古来の天皇制になじみやすい人が転んでしまい、西欧の一神教的な天皇像をもっていた人が転ばなかったという、超越性の持ち方の違いによる大いなる逆説的状況が起きたというのが私の見立てです。

あれ?それはそうでしょ、という印象。
また、シベリアの抑留者向けの新聞は正確には「日本しんぶん」だ。

そもそも私は、日本人の集団主義という“定説”を信じていないんですよ。私が外交官として国際社会をみてきた経験からすると、むしろヨーロッパ諸国の方が共同体意識、集団主義的な傾向が強いと思いますよ。身近な例で言えば、ドイツ人の団体旅行、イギリス人のボーイスカウト、パブリックスクールの寄宿生活。アジアに目を転じますと、例えばインド。かつてはギリシャ哲学と対話し、イスラムの影響を受け、イギリスの文明とも接触していて、知的な水準も高いし、人間の内在論理をとらえる力もある。ところがイギリスの植民地から脱却するのに非常に時間がかかりましたね。いま、インドはIT大国だと言われていますが、約10億の人口のうち、IT産業に関係する人口は、2、3%の枠から拡大していきませんね。その根っこは何かというと、カーストという身分制度の形をとった集団主義ですよ。

魚住氏は鋭い権力批判で知られるジャーナリストなので、思想史の専門家ではない。ゆえに佐藤氏が丁寧に解説する部分が増え、佐藤氏の深い洞察を展開する量が少ない。
著者の『獄中記』が、著者の独房における強靭な意志と思索の過程を臨体験できる重厚な本であっただけに、多少肩透かしの感があるものの、楽しい本には違いない。
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2007年01月17日

灰の経験

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小泉義之著『「負け組」の哲学』より

「生きるのに疲れた」「生きているのがシンドイ」「生きるのをやめたい」「死ぬ自由ってあるよね」。ならば、死んだことにすればよい。おそらく、デリダが、ブランショのテクストに仮託して言わんとしていたことも、そんなことである。
 「生者と死者の彼方でまだ言われるべき言葉」が残されている。そうである限り、「死ぬことの穏やかな禁止」(※)が聞こえてくる。だから、ソクラテス、ヘーゲル、ハイデガー、レヴィナスなどの死に淫する哲学は乗り越えられなければならない。「毒人参を口にしながらも、自分は死に臨むソクラテスではなく、プラトンをつけくわえたソクラテスであるというぼくの感情、死を避けられぬ病に襲われたひとびとだけがもっている、死ぬはずはないという確信」(※※)が、いまだ語られていないからである。
 最後に、梅木達郎が残したデリダの発言の訳文を引用する。「わたしは、自分が体験するすべてについて、もしその記憶が自分に、あるいはどこかに残り、それについて証言がなされ意味が与えられ、目に見える形で再び出現させられうると確信できるならば、たとえ最悪のものであっても、それとは折り合いをつけていけるだろう。では灰の経験とは、忘却であり、たんなる忘却ではなく忘却の忘却、それからは何も残らない忘却なのである。だからそれは最悪のもので、そしてまた天恵でもあり、同時にどちらでもあるのだ。」いかにして灰になるか、いかにして消尽したものになるか、いかにして亡霊やゾンビになるか。これが、デリダやドゥルーズが切り開いた哲学の問いであり、自爆する子どもの前に、自殺した人間の前に、哲学が差し出すべき問いである。

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(※)デリダ『滞留』
(※※)デリダ「真実の配達人」
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2007年01月07日

つづきスプレー

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『美術になにが起こったか―1992‐2006』椹木野衣著所収、『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』の伊藤剛との対話「スーパーフラット以後のマンガと美術」より。

ドラえもんの道具の一つである「つづきスプレー」について。
「つづきスプレー」は写真や絵に吹き付けることで、その「続き」が見られるという道具。例えばモナリザに吹きつけると、モナリザがその後老けていく様子が見られる。

伊藤 これはわりと面白いサンプルで、われわれがマンガを読むときの「キャラの時間性」を美術に持ち込むとどうなるかというところで笑いを取ろうとしている。ドラえもんというスーパーメジャーなマンガをとおして、われわれにはマンガ的な感覚と美術の感覚が二重にインストールされていることがわかるようになっているんです。
椹木 その「つづきスプレー」的な絵の見方というのは、むしろ美術とマンガの違いをうまく示していて面白いように思います。つまり、スプレーを吹きつけることによって画面の中に描かれている対象が動き始めるということは、一枚の絵画の中で地と図をはっきりと分離するということですね。ところが絵画における近代化というのはメディウムとしての絵画の物質性に忠実にその特性を表すということですから、一枚の絵画の中で「モナリザ」という人物が一定の時間の流れを前提に物語化するという見方は、劇場型のモデルとして退けられなければならないわけです。
 絵画の近代性とは、地と図が交換可能なものとなり、画面全体が時間継起性とは異なるかたちで運動を始めなければならないということですから、「モナリザ」であろうがムンクの「叫び」であろうが、画中の人物がキャラとして浮上することはあってはならない。その点で「つづきスプレー」は、表象としてキャラが立っていた近代以前にまで絵画を戻している。



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2006年12月20日

インテリジェンス

『インテリジェンス 武器なき戦争』のメモ。今後の安全保障・外交問題で、この2人の見解がメディアで存在感を増すことだろう。

【インテリジェンスの基礎】
・インテリジェンスは、諜報、防諜、宣伝、謀略に分類される。
・秘密情報の98%は、公開情報を整理することによって得られる。例えば北朝鮮については東京で必要な情報の80%は入手できる
・インテリジェンス能力は国力から大きく乖離しない。日本はインテリジェンス能力においても世界第2位の潜在力を持っているが、情報が分散して政府に集約されないので機能的に使われていない
・インテリジェンスの鉄則は「約束を必ず守る」「できないことを軽々に約束しない」
・世界中のありとあらゆる都市で、ほとんどの要人の電話は盗聴されていると考えるべき。例外はワシントン。
・多くの商社マンは、国際事件のあと「こうなることを示す情報を既に持っていた」と言うが、本当にインテリジェンスをわかる人間はそのようなことを絶対に言わない。
・新しい情報機関の創設には3パターンあり、イギリス型(外務省管轄)、アメリカCIA型(警察直結)、イスラエル型(両者の中間)

【各国インテリジェンス事情】
・イギリスは06年8月、民主主義の原則を損なうのを承知の上でイスラムコミュニティの通信傍受や二重スパイのカードを切って旅客機テロの容疑者を一斉検挙した。アメリカでは民主主義のハードルが高く、そこまでのヒューミントはできない。
・イギリスのSISがアラビア語とロシア語のサイトを「リクルートのため」として開設した。日本のメディアはそのまま「組織が開かれてきた」と報道したが、当然定期的にアクセスするアドレスに目を光らせる、情報活動のためのサイトである。
・イスラエルは1967年にソ連と国交断絶した際、ソ連圏に「ナティーフ」(ヘブライ語で「道」)という秘密機関を作り、ユダヤ人を第三国を経由して逃げ出させてきた。
・プーチンはサンクトぺテルブルグの副市長時代にイスラエルのロビー活動を受ける。それ以降イスラエルとプーチンは深いつながりをもつ。チェチェン問題ではイスラエルからの正確な情報をもらっていた。
・イスラエルで第四次中東戦争をきっかけに「悪魔の弁護人」という制度が生まれた。首相に提出されるレポートに対してありとあらゆる角度から難癖をつける存在。軍事情報部OBのトップクラスの人物が数人で勤める。
・96年の台湾海峡危機の際に、李登輝は極秘の工作員を中国共産党の指導部へ送り込んでおり、中国の撃つミサイルに実弾が込められておらず、台湾を侵攻する意図がないことを知っていた。

【日本のインテリジェンス】
ゾルゲの手記にある話。日本人から情報を取るには「あれ、あなた知らないんですか?」と言えばいい。知らないことが恥ずかしいと思っているから調べてでも教えてくれる。
・外務省は日々内閣情報調査室に、極秘情報は取り除いて並の情報だけを渡す
大韓航空機爆破事件はソ連の撃墜であると稚内の自衛隊内の電話傍受機関が傍受していたのだが、その最高度のインテリジェンスがアメリカに流出していた。渋々後藤田官房長官はアメリカより30分早く情報を公表した。対ソ情報戦略として評価されている事件であるが、実は日本の情報管理の失態であった。語られているストーリーは後藤田氏の脚本どおりに関係者が語ったもの。
・日朝交渉の失敗の要因の一つは。外務省が北朝鮮の外務省と人民保安省の関係を性格に理解できていないことにある。公開情報だけでも人民保安省と交渉すべきことがわかったはずなのに北朝鮮外務省と交渉してしまった。そして誰も責任をとっていない。
・日本には北朝鮮と中東のリンケージが見えていない。ノドンの発射現場にイランのバイヤーが10人以上来ていたという情報がある。イランのシャハブ3というミサイルはノドンのコピーである。つまり日本のODAでイランに落とした金が北朝鮮のミサイル性能向上に使われている可能性がある。X55というウクライナ製の巡航ミサイルは北朝鮮に流れている可能性が高い。
・金丸訪朝から平壌宣言に至る一連の対北朝鮮交渉の外務省に記録が残されていない。「外務省のモラルはそこまで落ちかけている」(佐藤)。
・モニカ・ルインスキーの祖父は杉原千畝がビザを発給したユダヤ人。シカゴ商品取引所のメラメド会長はも杉原サバイバルであった。彼はその経験から得た信念として、ブラックマンデーの際も市場を閉じなかった。リトアニアのランズベルギス大統領はユダヤ人団体との関係が悪かったが、鈴木宗男はリトアニアでの杉原千畝の名誉回復問題に強くコミットした。ユダヤ人ネットワークがどういうものか知っていた。
・戦前の対中情報の東亜同文書院と対露のハルピン学院は優れたインテリジェンス・スクールであった。杉原千畝もハルピン学院の卒業生でモスクワに赴任する予定であったが、ビザがおりなかった。おそらくハルピンでの情報収集方法をみて「普通の外交官とは違う」とソ連の秘密警察に怪しまれたためであろう(佐藤)。

【各国情勢】
・アメリカネオコンの特質。民主党リベラル派から保守派への転向組であること(社会福祉や教育で国家に頼りすぎたことでアメリカ人の自己責任感覚を鈍らせて国家を弱体化したという主張)。大半がユダヤ人であること(例えば代表的な論客のポール・ウォルフォウィッツは親以外のほとんどの親族がアウシュヴィッツで処刑されたポーランド系ユダヤ人)。NY市立大のトロツキストグループ、つまり世界革命の思想を持っている。自由民主主義による世界革命である。
・ネオコンの一つのルーツであるキリスト教右派は実はユダヤ人と近い距離にある。(記事
・フセインとアルカイダは反米以外の共通点がない。イラクは国民国家を志向しておりアルカイダとは対立する勢力である。それはアーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』というような定番の本を読み基本的な中東史を知っていればわかる。したがって米政権がイラク侵攻の根拠としたフセインとアルカイダが組んでいるという説は明らかな嘘。
・イラクの大量破壊兵器について、フセインがウランを入手したという情報は、イタリアが入手しイギリス経由でアメリカに入った情報。イタリアの情報機関はアルバニア、リビア、エチオピアにだけ強い。他については重要な情報が出てくることはない。
・イスラエルは、イラクに大量破壊兵器がないことを知っていながらも、中東で紛争が続きアメリカがずっといるほうがプラスになるので黙認する。この世の終わりまで生き残ることが旧約聖書に書かれた使命であるから、「全世界に同情されながら死に絶えるよりも、全世界を敵に回して生き残ることを選ぶ」。
・2001年3月、タス通信がアルカイダの流れが欧米でテロを起こす可能性に言及した。クリントン政権時、アメリカはアルカイダの身柄引取りをスーダンから打診されたが断った。
・9.11テロの際に小泉総理に意見を求められた鈴木宗男は、「タジキスタンを抑えろ」と提言した。タリバーンとビンラディンの一派に対立していたタジク人を使ってタリバーンを叩くしかないという認識。
・7月10日に、ロシア軍がチェチェン独立派の指導者を暗殺した。北朝鮮のミサイル発射で世界が騒然としている間を狙った。それに対する西側諸国の反発を抑える代わりにサミットでの北朝鮮制裁決議に拒否させないという交渉ができたはず(佐藤)。
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2006年12月02日

昆虫機械論

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98年だったと思うが、雑誌で昆虫をラジコンのように操作するという記事を読んで興奮した記憶がある。昆虫の神経に電極を刺し電流を流すことで、昆虫の脳はある方向に曲がるべしという判断をするので、リモコン一つで昆虫を狙った方向に動かすことができるというものだ。
『昆虫 ―脅威の微小脳』は、それより進んだ最先端の研究者が、昆虫の脳神経の研究成果を一般読者向けに解説する新書。
生物学の知識がなければ難しい箇所が多いものの、論旨は明快で要点を太字にするなど、文科系の人間にも理解してほしいという著者の工夫が随所に見られる。
すぐれた昆虫の認知能力の解明が現在世界でどこまで進んでいるのか一般読者に整理して伝えることは、著者が科学ジャーナリストではなく最先端の現役研究者であることを考えれば、決して簡単なことではないはずだ。
その証拠に、あとがきを読むと3年もの期間を費やして新書を執筆したとあり、その熱意に感動を覚える。
ラインナップが多すぎて玉石混交の新書市場で、さすがは老舗の中公新書と呼べる傑作だ。

【memo】

・昆虫の種類は記録されているものだけでも約100万種にのぼり、全動物種の2/3を占める。さらに熱帯雨林には1000万種を超える未記載の昆虫が生息していると推定される。

・昆虫の1m㎥に満たない脳のニューロン数は多くて100万ほど。ヒトが1000億であるから1/10万以下。スーパーコンピュータとノートPCの違い程度。ただしそれは小型・軽量・低コストの情報処理装置の傑作である

・ハエには肺がなく酸素は気門から気管系によって運ばれる。その供給方法は人間を自動車の「水冷式エンジン」とすればハエはオートバイの「空冷式エンジン」と言える。ハエの胸部にある飛翔筋の細胞は、あらゆる動物の細胞の中で最も高い効率でエネルギーを生み出す。

・イエバエの一つの複眼は6000個の個眼を持つので左右で1万2000個の点に仕切って世界を視認している。トンボで5万個。数百万画素のデジカメに比べると、昆虫の複眼は極めて粗い像しか捉えていないということ。ハチやハエの視力は人間でいえば0.01か0.02程度。その解像度の低さを視野の広さ(360度)と時間の解像度(ハエは一秒間150回の明暗の変化を見分けられる。人間は15〜60回)

・ミツバチは風景を記憶できる。またヒトと同じ錯視を示す(図の実在しない四角形「カニッツァの図形」を認識する)。また、対称と非対称を区別し一般化できる。つまり「ものの同一性や非同一性といった抽象的な関係性を抽出」できる。
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・ミツバチは餌のある方向と距離を仲間に伝えるのにダンス・コミュニケーションを行う。「ダンスの直進部分の方向と重力の反対方向が作る角度を餌場とと太陽がつくる方向に読み替え、また直進部分の音の持続時間を餌場までの距離に読み替える」ことができる。それによって三次元の方向と距離を正確に仲間に伝えることができる。そのような「記号的コミュニケーション」(情報を伝達するために記号に変換する)はヒトを除いて動物界には例を見ないもので、それを実現する脳機構は解明されていない。

・ハチやアリは巣に戻る際に太陽の位置を基準として太陽の見える角度から巣の方向を計算する。また一日の時刻を知り、その時刻の太陽の位置を覚えている。太陽が直接見えなくても青空の一部さえ見えれば巣に向かって定位できる。

このような特徴的な行動が、どのような脳神経の機構により実現されているのか、またその機構は進化の過程でどのように獲得されてきたのか、丁寧に解説されている。人間の頭脳を頂点として、その他の動物の脳を下位に置くという人間中心の自然観から解放され、昆虫の微小脳のすぐれた機能を評価することによって、かえって人工知能や人間の脳を理解するヒントが得ることができる。その意味で優れた人間論とも言える。
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2006年11月07日

インセンティブの学問

人間社会のあらゆる現象がインセンティブに基づく合理的な行動であるとの前提で因果関係を解明することが経済学の目的であると『ヤバい経済学』は主張していたが、『これも経済学だ!』も同じように、伝統芸能や宗教など、一般的に経済学が相手としないカテゴリをインセンティブによる人間の合理的行動の累積として考察した新書。

ただあくまで「経済学的な視点で歴史や社会を見る」ことと「経済学を学ぶ」ことは違っており、その違いについては留意する必要がある。
著者の言うようにあらゆる行為にはインセンティブがあるという前提であっても、人が人を組織しルールを作ろうとするインセンティブは多種多様であり、「インセンティブ」を分類しないまま議論を進めて、後で「こういうインセンティブによってこんなルールがつくられた」と結論付ける場合、経済学というよりも「人間や組織の行動や選択には動機があった」というごく普通の一般論に堕してしまう可能性が高い。
本書は著者の既刊の著書のサマリーとしての位置づけだという。
本書の価値は「経済的には合理的ではない」と一般的に想定されている伝統芸能や宗教、障害者問題の背景にどのような合理的なインセンティブが存在しているか解き明かそうとしている試みであり、情報公開されていない世界ゆえに著者の調べた事実そのものがまず面白い。
ただし、経済学的な事実と著者の仮説とを分けてよむ技術が必要がある。
「一見非合理なルールもあるインセンティブに基づいて作られている」という論説に対して、インセンティブに基づいてルールが設計されたケースと、ルールがインセンティブを生んだケース、非合理に設計されたルールがインセンティブに合致していたので存続したケース、その分類は必要ではないだろうか。

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・大相撲の力士は十両以上ではじめて給与が支給される。
・給与は褒賞金と職能給の二階建てで、褒賞金が年功的。
・褒賞金は勝ち越しで50銭、金星で10円、幕内優勝で30円、全勝で50円というような額が決められて加算され、減額されるこがない。
・その加算額の4000倍が場所ごとに支給される。
・平均的な出世を果たした年寄の生涯所得は3億6000万円程度。
・ただ横綱の月給は約280万円。野球やサッカーのトップクラスの選手に比べて低い。
・力士の多くが中学卒で、その体型も含めて一般社会でリスタートすることが困難である。引退後の手当を厚くすることで入門者を確保し、ひいては相撲文化の保護を可能としている。
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2006年10月31日

日本橋の全体主義

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五十嵐太郎が、「美しい景観」という大義のもと、東京日本橋上の首都高速移設を目指す早急な議論に反対する根拠は、要約すれば下記のようなところか。(『美しい都市・醜い都市―現代景観論』所収)

・石原都知事との手柄の取り合いに過ぎない(事実、双方の主張は相手の出す計画に応じて変化しており、一貫性がない)
・当然、新たに高速道路を新設するので「景観」に名を借りた「ハコモノ」行政に過ぎない。
・優れたハコモノの必要性は認めるが、5000億という大金を投じる価値は見出せない(都庁舎が1500億強である)。それよりはるかに低コストで可能な日本各地の重要な近代建築の保存にこそ予算を割くべき。
・近くの神田駅周辺では東北縦貫線のための新しい高架線路を作る予定であり、景観の美化という目的において矛盾している
・既に三井グループなどにより始められている日本橋付近の再開発を後押ししたいだけではないか。その結果、中小規模の商店などは駆逐され、むしろ景観破壊が加速するのではないか。
・親水公園にするために川沿いの建物が撤去されれば、残り少ない近代建築も破壊されるのではないか。
・伝統的な景観の復活といった場合、江戸期なのか明治期なのか、いつの時代へ復活したいのか明確ではない。明治期に既に江戸の木造の風景は解体され、洋風の橋が建設されており、それが現在の日本橋である。つまり首都高を撤去しても江戸期の風景は再現されない。
・タルコフスキーやヴェンダース、ソフィア・コッポラのように、首都高は驚くべきランドスケープだと、外国人が評価している。一種のオリエンタリズムだとはいえ、それが東京のイメージになっているのも事実。観光立国という一つの目的から考えても、西洋人にとって日本橋は単なる西洋の物まねとしか写らない。
・周りの日本橋の高層ビルのほうがいい加減んなデザインであり、景観に影響を与えている。高層ビルも含めて考えれば首都高の移設だけで景観がよくなるとは思えない。ありがちなウォーターフロントができるだけでは。
・そもそも首都高は醜いか?ヨーロッパのどこにでもある日本橋よりも首都高のほうがダイナミックである。そのような視点も含めて、首都高のデザインそのものについて議論がなされておらず、醜いことが前提になっている。
・首都高のこの付近は、東京オリンピックにあわせ技官達が技術の粋を集めて戦後日本の復活を担う重要なプロジェクトであった。彼らは、首都にこれだけのものを作る以上、デザイン面についても真剣に議論していた。そのモニュメントは全面的に否定されるべきものなのか。テクノスケープの美、という視点をもつべきである。


国家が提示する「美しさ」は常に疑う必要がある、ということ。

(国家が)なんの恥じらいもなく、美しいと堂々と言い切ってしまうしまう言説に対する気持ちの悪さとでもいうべきか。正義を掲げて戦争を続ける国家、健康を賞賛しながら身体の管理を推し進める行政、あるいは安全な社会をめざして監視と排除に向かう社会と似ていないだろうか。


行政が規定する画一的な「美しさ」の果てには当然ながらファシズムが垣間見える。ヒットラーやムッソリーニは、建築と都市計画を国民統制の重要なツールとして認識していたし、事実それはある程度機能した。
それらは現在政府が進めている無理に情緒的で説明的な「美しい景観」に比べれば美しいと思える。
そのあたりはちょうど同時期に発売された井上章一の『夢と魅惑の全体主義』に詳しい。

健康、セキュリティ、景観、移民、、ファシズムは歴史的概念ではなく常に身近に、むしろ我々の内部に巣食う思考の陥穽である。正義や美といったごく個人的な概念の規定を行政に委ねず、自分自身の「美しさ」「正しさ」という概念を常に歴史を参照しながら常に相対化し、「醜さ」や「悪」を排除せず取り込み続ける思考の強靭さが求められている。
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