報道写真が傍観者による事件の記録である(つまり撮ってる暇があれば助けろ)というジレンマはあまりに古典的で、もはや検討されるものですらなくなっていたが、携帯カメラが人の数だけの報道カメラマンを生んだ現在において、そのジレンマは新しい問いを生んでいるはずだ。
今橋映子の『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理』
著者はあくまで「私たちの」写真の読み方を問題にしており、撮る側つまり冒頭のソンタグの言葉にあるような「写真家」の倫理を問うものではない。
写真はいかなる演出を持ってしても、ただそこにある景色でしかない。美しい風景、悲惨な光景、悲劇の人々。写真が示すそれらの物語は、私たちが「そうであってほしいと願い、そう解釈する」ことで成立する、写真家と読み手の共犯の成果と呼ぶべきものである。
「貧しくとも黒く輝く瞳をもって遊ぶ先住民の子供たち」を、実は見たいと無意識に欲求するのは、読者である私たちかもしれないのである。
そのことに中平卓馬は常に苛立ち、厳しい批判を加えた。彼が植物図鑑写真家
例えば、アメリカ西部の広大な平原と眩い太陽の光とそこに生きる人々の荒々しくまた明るい顔が写されており、その土地の独特な自然と事物のあり様が印されてはいる。だが私はすぐに、あれこれの土地、あれこれの場所に出向いてゆくならば、ただその気になりさえするならば、そのように人々は生き、事物は存在しているのだろうと、一気にすべてを<了解>してしまうのだ。(中略)
一言で言ってしまえば、これらの写真には一様に、旅行者だけがもつ甘えた感傷とそれと裏腹にあるつきなみな希釈された好奇心がべったりと貼りついているということなのである。『決闘写真論』
ロバート・フランクの撮るアメリカ郊外のだらしない風景、解釈を拒む人の表情、本書は触れていないがホンマタカシももちろん「決定的瞬間」「美しい写真」という問いへ問題意識の高い写真家として記憶されるだろう。
私たちが報道写真に「美しさ」を求めるがゆえに何を失っているのか。クリスチャン・サルガドを批判するソンタグの洞察は重い。
ソンタグは、サルガドの写真によって、個人の、個別で無二であるはずの悲惨が抽象化され、世界中の悲惨が一まとめにされるとする。
そうして喚起された抽象的な同情は、具体的で個別の行動であるはずの政治と真剣に向き合うことを避けるのだと、『他者の苦痛へのまなざし
なによりも「美しい」ことは、見るものが予め設定した美のフレームワークから逃れていないという意味で中平のいう安易な<了解>を生み、世界の悲惨が見るものの価値観と地続きであるという安心を与えことはあっても、まとわり付いて離れない違和感や価値観を破壊するような衝撃を生むことはない。
池澤夏樹の、それでもサルガドの写真は美しいからこそ記憶に残る「美しい棘」として評価することも可能だとする解説は、ソンタグの問題設定を踏み外している。
思考の契機たる報道写真がなぜ美しくなければいけないのか問われなければならないことにとどまらず、それを美しいと思う私たちの価値観は、報道写真が表象する悲惨を、写真の向こうにある美しいはずもない現実を、私たちが了解済みの美的構図に押し込めていることに意識的でなければならない。ソンタグが言おうとしたことはこういうことではなかったか。
断片的な写真がアウシュヴィッツとユダヤ人の消滅という理解を絶する悲劇を表象できるのか、というランズマンとディディ=ユベルマンの論争は、著者が言うようにランズマン側に論理性を欠いたものかもしれないが、書き言葉に対するのと同様の批評言語が写真において成立したという一種の成熟を示す出来事と言える。
言葉が伝達と共有の道具である以上、個別の悲劇を言葉で表象することにより、読み手の言葉の体系に合わせて抽象化してしまう作用から逃れることはできない。
写真も、固有名を撮っているようでありながら、見るものの認識の枠組みのなかで抽象化されることを避けることができない。
アウシュヴィッツ以降詩を書くことが野蛮だとすれば、写真を撮ることも野蛮である。
それでもなおその野蛮さを引き受けるものが写真家であり、見るものの倫理は、写真の野蛮さを知りつつも、写真の向こう側から聞こえる叫び声に耳を澄ますことに他ならない。
拷問された人間が叫び声を上げてしまうように、永続する傷は表現されてしかるべきものかもしれない。それゆえ、アウシュビッツ以降もはや詩を書くことはできない、と言ったのは間違いだったかもしれない。(アドルノ『否定弁証法』)
著者は写真の読み解き方を「リテラシー」として示すわけではない。写真をめぐる諸問題を一つの倫理的な問いかけとして、答えを留保しながら写真の可能性を探る。
それは、リテラシーという用語がいくつかの、特にビジネスの領域で「基礎的な知識やスキル」の多寡を示しているのとは対照的である。
――せねばならない」と指し示す「道徳」と異なり、「倫理」とは、あり得べき複数の可能性の中で思考を継続させる誠実さそのものだからである。


