2008年08月24日

勇敢さについて

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『帰らない日々』
『告発のとき』

闘うことよりも、闘いを降りることのほうが勇敢である。そんな場面は多い。闘う勇敢さも誰もが語る。闘い方はどこでも学べる。そこでそんな闘いから降りろと言ってやれるのは家族以外にあるだろうか。
映画の三組の父子いずれも、父が子を助けてやることができない、父子の断絶は勇敢であることの断絶である。

悪者に虐げられた善良な人が助けを求めていて、あとは舞台袖から出てくる正義の味方を待つばかり、そこで最強の武器を渡されているならば、誰もが勇敢なヒーローになれる。アメリカにはかつて確かにそういう時代があった。
父は子に勇敢であれと語りかけるが、今や子は救うべき善人も見失い、闘うべき悪者も霧の中にいる、あとは父親の期待に応えるためだけに勇敢であろうとするならば、残酷な結果にむけてストーリーが進むしかない。
アメリカの父親が示すべきであったろう勇敢さや正義が、アメリカが国の成り立ちとともに体現したそれらと共振して崩れてきたのが、911以降、本当はベトナム以降の世界であった。
『告発のとき』の原題は"In the Valley of Elah"、幼いダビデが巨人ゴリアテを倒した「勇敢さ」を、T.L.ジョーンズが語っても、子供は理解できない。なぜ闘う必要があるの?
そして映画の観客も、旧約聖書のこの一エピソードを理解できない。
わからなくとも、とにかく勇敢であれというメッセージが全てを了解させる世界は、闘う理由が問われることはない。
闘わず解決する可能性、闘いが弱いものいじめでしかない可能性、闘いで失うもののほうが大きい可能性、勇敢な妥協・勇敢な撤退の可能性。これら闘わないためのあらゆる可能性を閉ざした、闘うことに疑問を挟むことの決してない世界での勇敢さが、ある世代までの実に限定的な勇敢さであったと今アメリカが振り返ろうとしているのであれば、未来は決して絶望的ではない。断絶を乗り越えるためにこそ、映画が断絶を描いているのだと考えたい。
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2008年08月11日

責任について

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『敵こそわが友』@銀座

アイヒマンはナチスドイツの敗戦後、アルゼンチンで拘束されるまで逃亡生活を続けたが、対照的に親衛隊中尉としてリヨンでレジスタンス活動家を多数拷問・虐殺したクラウス・バルビーは、アメリカ陸軍情報部(CIC)の支援を得て逃亡した後は、アメリカとボリビアで公然と左翼勢力、共産主義勢力の鎮圧に腕を振るう。バチカンのラットラインもバルビーの逃亡に貢献する。(参考:『ローマ教皇とナチス』

戦後の米国最大の目的である「反共」の名の下においてはナチスドイツとの連帯が十分に可能であり、バルビーのソビエトに対する情報をアメリカが求め、南米の軍事政権も彼の尋問・拷問のノウハウをゲバラの殺害等、治安維持のために必要として、彼をアドバイザーとして庇護した。
アメリカにとっては極秘の支援であっても、当時の南米諸国は新ナチ政権が多く、ボリビアでガルシア・メサ将軍による軍事政権樹立の際、高らかに鉤十字が掲げられる。ナチスドイツの歴史的清算にあたって、西欧においては強い拒否、アメリカではプラグマティックなナチスのノウハウの利用、南米での半ば公然となっていた親ナチ。その地域間の温度差を、バルビーはしたたかに生き延びた。
他にもナチス親衛隊の残党が、「第四帝国」創立のために90年代まで活動していたこともここでは語られている。
バルビー本人の犯罪以前に、イスラエルを支援しながらも、ナチスドイツの残党を支援して対ソの諜報活動を進め、同時に日本の戦犯も利用してソ連包囲網を作ろうとしたアメリカの戦後のプラグマティズムを冷静に読み解く必要がある。

監督の前作『ラストキング・オブ・スコットランド』と本作を結ぶ線は、終盤、フランスでのバルビー裁判の弁護人としておそらく世論の猛反発を受ける中、バルビーの無罪と欧米各国の戦争犯罪を糾弾するベトナム系フランス人弁護士のジャック・ヴェルジェスである。彼はアミン、ポルポト派、ミロシェヴィッチなど「人道に対する罪」に問われる犯罪者の弁護を歴任したことで有名である。
ユダヤ人をドイツに引き渡したヴィシー政権の罪を、バルビーの罪よりも重いと激しく糾弾する姿が、この映画の持つ難題を象徴している。
組織的な犯罪行為における因果の連鎖は、検証すればするほど個人の罪の希薄化に貢献する。この責任のパラドックスを、バルビー裁判はアイヒマン裁判よりさらに複雑な形で象徴することになる。
判決は最高の終身刑であり、ニュルンベルク裁判よりも重い罪は不当だとヴェルジェスはマスコミに熱弁を振るう。収監中にバルビーは病死する。

この映画では、彼の罪や責任について追求していくよりも、戦犯とされるバルビーが各国の緊張関係を利用して生き延び、その関係の変化によりフランスで被告となった経緯を明らかにすることで、冷戦下における国際政治のリアリズムを描くことに力点を置いている。
ヴェルジェス弁護士は終始バルビーをスケープゴートであるとして、被害者のなすべきことは決してスケープゴートへの復讐ではない、と熱弁を振るう。

組織の罪は組織にあり、システムの一要素である個人には還元できない。現代の悪は常に凡庸で、ゆえにあらゆる組織犯罪において個人が罪に問われることはスケープゴートに他ならないが、それでもなお人類の歴史は法律を超えてスケープゴートを必要とする。
「責任が誰にあるのか」を問うことはほとんど不可能である。
しかし現実に過去を乗り越えようとするならば、「責任を誰がとるべきか」が問われなければならない。

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2008年05月27日

Bastard

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"There will be blood"
一人になりたいと言い続けただけの男の話。PTA渾身の大傑作、石油王の一代記と言われているが、石油王プレインビューの、石油のためにあらゆるモラルをかなぐり捨てるような業の深さが描かれているわけではない。本当に交渉のために「息子」を利用する冷血漢であれば、聴力を失った後のほうが利用価値は高いはずだが治療と教育を優先し、「弟」とは一時的に家族経営の体制を作ろうとした。「息子」「弟」と家族の絆を結ぶことを避け、一人に。福音派の牧師と対峙し、信仰と実利、神と石油との戦いと葛藤を描くわけでもない。PTAがアメリカと映画の歴史に払う敬意は清清しいが、情緒不安定でもプリンの懸賞を集めて世界一周をするような屈折したアメリカ人を描いて欲しいし、石油の炎柱よりも蛙の雨を見たい。"Bastard"と「息子」へ、独り言のようにつぶやくシーンが美しい。家族だけは手に入らなかった自分の人生を呪うわけでもなく、目の前の息子をとにかく罵る凄み。

・・・・・・わたしにとって、暴力に代わるものは、逃避なのです。本質からの逃避ではなく、本質を獲得するための逃避、つまり戦略です。書物が禁じられたら、書物を暗記してしまえばいい――すばらしい術策ではないか。たとえば、映画検閲の問題に対しても同じことです。まともに反旗をひるがえして討ち死にすることはない。検閲の裏をかいて勝つ方法はいくらだってあるのです。暴力よりも、そのほうがいい。わたしは主義主張などのためにたたかうつもりはない。わたしは社会について悲観的な考えしかもっていない。生きていくためには、単純に粗野なモラルを持つ必要がある。いつも「はい、はい」と言って、けっして否定したり拒絶したり反抗したりせずに、そして「はい、はい」の姿勢を偽装しながら、自分のやりたいことだけをやるという精神を持ちつづけねばならない・・・・・・。(トリュフォー、1970年の週刊誌インタビュー、『トリュフォー、ある映画的人生』山田宏一著より)
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2008年05月01日

記憶にまつわる映画

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『潜水服は蝶の夢を見る』
ELLEの編集長が脳梗塞で倒れ全身不随となる。唯一動かせる左目の瞬きだけで、自伝を書き綴る。リチャード・ドレイファスが「この生命誰のもの」で演じた全身麻痺の患者のように深刻にならず、意外とあっさりその状況から前向きに生きる決意をする。愛人と会い、モンテクリスト伯を読み、医者に難癖をつけ、ロックイン・シンドロームを生き抜く。ウルトラ・オレンジ&エマニュエルの歌がチープに響いて、逆に主人公の人格が厚く感じられる。
「記憶と想像力」が彼を「潜水服」から解放したと言う。想像力は記憶の産物である。彼の華やかな人生の記憶と、あらゆるものに知的好奇心を編集者魂が生への執着を生み、四肢の不随によってかえって人間の存在への関心を呼び起こす。人は記憶によって生きるのだ、と。同じくローリングストーン誌の編集者ジョナサン・コットが、記憶の一部を失った後に「人間と記憶」について執念深くあらゆる角度から調べあげて『奪われた記憶―記憶と忘却への旅』という力作をものにしたことを思い出した。希望を捨てるなということは簡単だ。だが、まともな人間であれば絶望するような状況の人間に希望を持てと言うことは残酷でもある。二人を支えるのは「知りたい」と「伝えたい」を繰り返す編集者魂だろう。希望や夢だけが人を生かすのではない。


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『つぐない』
タイプライターの音が終始鳴るのは単なる効果音ではない。イシグロと並んで現代イギリスの「信頼できない語り手」の小説家と呼べるマキューアンの『贖罪』を映画化するには相応の覚悟が必要だろうが、後半にかけて描写に少しずつ非現実的なシーンが挿入されていくことで、見る者は徐々に「語り手」の存在に気付き始める。特にフランス北部に派兵された主人公の退却途中の描写は夢の中をさまようようでおよそリアリティがない。そこが事実から物語へ語り手の記憶が変容していくで岐路の表現であり、文芸作品の映画化にありがちな映像の貧困さとは違う。
少女のあどけない夢想で一人の男の人生を狂わせた罪を償うべく、主人公は大学進学を諦め看護師となる。看護した死期に近いフランス兵が、目の前の看護師と記憶とを行き来し、その区分が混濁しながら一つの物語に全人生が溶け込んでいくように死に逝く様を看取ったことが、記憶と物語への贖罪に向けて彼女を後押しする。誰もが失われた人生を負債のように背負って生きている。だが弁済はできない。失われた人生には贖罪と和解(Atonement)が必要であり、ありえたかもしれない人生との比較は賠償と謝罪しか生まない。
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2008年03月20日

弥生映画

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●「ノーカントリー」"No Country for Old Men"。怖い。七三分けマッシュルームカットの殺し屋は選択と決断を基にした不思議なルールに従って出会う人々を殺す(もしくは殺さない)。彼の顔を見たら人生の全てをコイントスに賭け、全責任を取らなければならない。自分の選択を信じられない依頼人も仲間も殺す。"What's the most you ever lost on a coin toss?""Call it, freiend-O"。そのルールを見極めようとするうちに登場人物の多くは死に映画も終るが、殺し屋のどこかに一貫したルールやモラルがあると悩むこと自体が、本作でトミー・リー・ジョーンズが体現している、犯罪にはそれなりの理解できる理由があるとする"Old Men"のパラダイムでしかない。この殺し屋はマクガフィンであり中身がない記号だ。舞台となった80年以降の純化され自己目的化した暴力そのものの表象である。原因や理由は必要とされない。最後は金を奪い返すための殺しでもない。音楽はなく映像がソリッドで120分一気に過ぎる。怖い。●「Mister Lonely」ハーモニー・コリンが復帰してやっぱり映画が大好きと宣言している映画。他人のモノマネは苦しいのではなく、人生そのものが息苦しい人にとって、他人の人生を借りると、借り物だから長続きしないのは薄々わかっているけど、少しだけ楽になる。ヴェルナー・ヘルツォークとレオス・カラックスが脇で出演する貴重なフィルム。

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2008年02月15日

家族の歴史

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『かつてノルマンディーで』ニコラ・フィリベール

200年前の殺人事件を、師匠のルネ・アリオが30年前に映画化した。
映画では、ロケ地であるノルマンディーの農民たちに役者として登場してもらった。
その農村を、当時の助監督であったニコラ・フィリベールは、もう一度訪れる。

200年前の事件、30年前の撮影、現在。
それぞれの時間が交差する。

モデルとなった事件は、父親を守るために、神の啓示だとして母親と弟妹を殺した若い男の話。
精神鑑定という概念がない時代に、裁判では男が狂人か否かの論争が繰り広げられた。
一方で男は殺人に至る動機を極めて克明な手記に残し、自殺する。
その手記に現れる犯人の知性の高さ、言葉の美しさにミシェル・フーコーは注目し、『ピエール・リヴィエールの犯罪―狂気と理性』という一冊の本を記した。
フーコーはこの映画のロケにも来た。農民は「フーコーは知性をひけらかさず、気さくに話しかけてくれた」
映画に出演した農民たちのその後の人生を、フィリベールは丹念に聞き取ろうとする。
「他人を演じることで、自分が何ものかわかった。リセを留年したけれど、全く後悔していない」とする女性。
映画出演のあと、娘が統合失調症になり、苦難の人生を送ってきた夫婦。
主役の犯人を演じた男は、ハイチで牧師をしていた。その信仰の中には、完全な悪人などいないという、事件の犯人を演じることで得られた信念があった。
映画の中の犯人、映画の出演者、映画の監督と助監督、それぞれに家族があり、生と死がある。
200年前、30年前、現在を行き来することで、歴史がつながり、個別であり普遍でもある家族の問題が、重層的に現れる美しいフィルムに仕上がっている。

監督はこの映画を豚の誕生のシーンからはじめる。
新しい生命を祝福する歓喜の場面ではなく、今にも息絶えそうな豚の稚児を心臓マッサージし、叩き、なんとか生命を与える、農家にとってはいくつもの流れ作業の一つである。
後半では、生きた豚を捌くシーンを映す。
頭を長い金槌で強く叩き、痙攣している間に頚動脈にナイフを入れ、血を抜く。「うまくいった」と農民。
逆さに吊るして、腹から内臓を取り出したら、出荷可能な肉になる。
『世界屠畜紀行』の実写版であり、慣れていない人は目を背けたくなるものの、彼等の生活を、牧歌的な農村風景ではなく、豚の生と死に託す。豚は商売道具であり、生活の糧であり、家族でもある、その畜産農家の家畜との距離感を緊張感のある映像で表現するテクニックには驚かされる。

田舎、農民、動物、子供などをテーマとしながら、極めて知的な距離感を保つ監督であるという印象は、益々強まった。
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2008年02月11日

素朴さを伝える

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Etre et avoir ぼくの好きな先生』ニコラ・フィリベール監督

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地方の山村にある、全校生徒13人の小学校。日本でもこういうテレビ番組が時々ある。ただ本作は正真正銘の映画である。
厳しい吹雪のなか牛の群れを統べている農民、教室の床を這う二匹の亀。 オープニングでそれだけを映し、その学校がどういう環境にあるのか、景色と動物に語らせる。
その後も牧歌的な世界で生徒と教師の対話を中心にゆっくりと時間が流れ、田舎の子供たちが素直に成長していく幸福を観る者は感じ、卒業とともに町の中学に行くことになる生徒との別れには、この少し古風な教師と田舎の純朴な生徒が毎日積み上げてきた絆の重さに心打たれる。
そこに至るまで、監督は10人以上の生徒およびその家族、そして教師の特徴を短時間のうちに観客に伝えることに成功している。
その教師や生徒が好きで、ただ真面目にカメラを回したとしてもこうはならない。
だからこの監督は、本人まで素朴な正義感たっぷりのドキュメンタリー映像作家と考えるのは誤りで、実に冷めた目で、戦略的に画面を構成する手錬れの映画作家と理解するべきではないだろうか。

誰もが幸せとノスタルジーに浸って観たはずのこの映画の公開後に、監督がこの教師から肖像権や知的所有権の侵害で訴えられたという驚くべきエピソードは、詳しい訴訟内容および経緯は知らないが、本作が並のドキュメンタリーではなく、優れた映画に昇華した映像だと言える証拠だと思う。

この子供たちとの距離感は、ラッセ・ハルストレムの『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を思い出させる。ハルストレムも決して素朴な映画作家ではないように、あるいはデビッド・リンチが『ストレイトストーリー』を撮ったように、素朴さの反対側から、伝えるべき「素朴さ」を冷徹に見定めているクールな才能の存在を感じるのだが、考えすぎだろうか。
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2008年01月11日

昼顔・夜顔

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『昼顔』監督:ルイス・ブニュエル 1967
娼館、SM、死体崇拝、少女趣味、犯罪者、殺人といった背徳・変態趣味をここまで美しくまとめるブニュエルの技量とドヌーヴの美しさは際立っている。貞淑な妻が夢見た不徳への憧れか、娼婦のみたつかの間の夢か、それとも夫、あるいはドヌーヴに娼館を教えた夫の友人(ミッシェル・ピコリ)の妄想なのか、なにが現実でどれが夢の話なのかを考える必要もなく、ブニュエルはブルジョアの夢遊びにかこつけてドヌーヴでとにかくこういう映像を撮りたかったのだ。監督は撮りたいものを素直に撮っているだけであり、劇中のドヌーヴと同じく、自分の欲望に忠実と言える。それだけで十分美しいのだから、やはり名作である。


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『夜顔』監督:マノエル・ド・オリヴェイラ 2006
オリヴェイラにとってはちょっとした余芸というか、意識しなくてもこういう映像になるという手癖のレベルで撮ったのだろうが、カットは流麗で古典的、セリフは優雅とは程遠く一々引っかかる嫌味に満ちた作品が撮れている。本来短編の素材でしかない一エピソードを、ドヴォルザークを延々流し、パリの街を固定で映して、情報量を増やさず70分に引き伸ばしているのだが飽きない。『昼顔』を解釈・補遺しようとする意志よりも、ブルジョアがみる白昼夢を現実との線引きをせずに楽しむだけで充分だということを『昼顔』と同じくピコリに語らせることがブニュエルへの最高のオマージュとなる。ドヌーヴを起用しなかったのは、スケジュールや予算の都合か、ドヌーヴが『昼顔』に納得していないのか、今のドヌーヴがあまりに当時と変化していないので「その後」を撮るには不都合とオリヴェイラが判断したのか、そこを知りたいのだが。

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2007年12月22日

once

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once
アイルランドだが、ケン・ローチよりもウィンターボトムの「ひかりのまち」のような雰囲気でハンディカムを回した、でもたぶんそれよりもっと低予算な映画。
ストリートミュージシャンの”guy”と、ピアノの弾けるチェコからの移民”girl”が、互いに音楽を奏でることで、言葉による対話以上に、お互いのうまくいかない人生の空白を埋めあっていく。
どんなジャンルでも音楽が好きな人にとって、音楽があると、いろんなことがほんの少しずつうまくいく。
ただそれだけを描いた佳作。
作風は非常に粗く、よく言えばドキュメンタリー風、どうやってロケし、どんな編集をしたのか、作ったプロセスが観客にも手に取るようにわかる。そんな素人臭さが、ストーリーを追いながらもメイキングを想像して楽しめる映画だし、ゲリラ的なロケだろうからダブリンの町の雰囲気もよくわかる。
だが、映画の小道具係が用意することはできないであろう穴のあいたギターは、guyが今まで舐めてきた辛酸を多く語っているし、チェコ移民たちがコミュニティをつくって暮らしている風景を短時間で説明できている。決して下手な映画ではない。地味なファッションも素晴らしい。
センスよくまとめようという意思が全くないし、ストーリーはおとぎ話だ。だが、名前をもたない主人公の誰でもなく誰でもある感覚を、ダブリンの街の景色とシンプルな歌声が後押しして、映画を見慣れている人ほど不思議と感情移入しやすいのだろう。
海でgirlが言ったチェコ語は何だったのか。わからないのがまたうれしい。
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2007年12月08日

ある愛の風景

『ある愛の風景』@有楽町

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監督:スザンネ・ビア、2004年。
アフガンから帰還兵のPTSDモノに家族劇をからめた、戦争映画としてアメリカでリメイクされるらしい。
ジェイク・ギレンホールがトビー・マグワイアの弟だそうだが、トビーがどうも若い気が。2人の年齢差を直感的に理解できない。

戦争から帰還した父親の精神が崩れていく描写は壮絶だが、それでも本作は最新作の『アフター・ウェディング』と対をなす、兄弟の葛藤劇であり、子供が新しい父親を受容していく家族の物語だ。その意味でこのスザンネ・ビアの両作品を同時に上映しているシネカノンの判断は正しい。

両作品とも、仕事で旅立つ父親に、子供が「誕生日までには帰ってくる?」と聞くところから物語は始まる。
どちらも父親の、その存在が変調をきたす。一方は病で死に向かい、一方は戦地で死んだはずだったが生還するが別人のようだ。子供たちは、新しい父親を受け入れようとする。特に「ある愛の風景」では、変わり果てた父親に対する姉と妹の態度の違いを繰り返し描いており、そのまま父と父の弟の人生の違いとも重なり、家族が立体的に描かれる。
コニー・ニールセンはいい女優。
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2007年11月07日

After the Wedding

スザンネ・ビア監督の『アフター ウェディング』
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最初と最後に挿入されるSigur Rosの曲が、観終わって何時間もまとわりつく傑作。他人の子を育て愛することで家族を築いてきた二人の男の話。誰とも共有できない苦悩を、命の最期に誰かに伝えようと、一人の男はもう一人の男に、復讐と信頼と、複雑な思いを形にしようとする。眼、口、手、インテリアのクローズアップ。決して「ただの善人」にはなれない、コンプレックスと共に成功への道を歩んできた男のやせ我慢を、現実逃避の慈善活動に没頭するまま大人になりきれない男が受け止める。その二人の男の欠落を、ドグマ仕込みのカメラが容赦なく描く。『しあわせな孤独』もいい映画だったが、本作も見る者の心を揺らす。
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2007年10月17日

誰が聞くか

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リサ・モリモト「特攻」

語りたくないことを聞こうとする場合、「どう聞くか」よりも「誰が聞くか」のほうが大事であることが多い。
身内にも自分が特攻隊員であったことを語らなかった元隊員だが、特攻隊員の姪で日系アメリカ人の監督には、自然と特攻の細部について語り始める。なぜ彼女がその話を引き出せたのかはわからない。だが、日本人のインタビュアー相手には、彼らは多くを語らなかっただろう。
瀬島龍三が、遂に終戦間際のソビエトとの交渉、つまりシベリア抑留に関わる疑惑については誰にも語らずに鬼籍に入ったことも残念だが、あの戦争の実相を捉える作業は、あと十年で、本当に終らざるを得ない。優れたインタビュアーの活躍に期待したい。


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マイケル・ムーア「Sicko」

いつもながらの優れたアジテーション。今は聴き手がムーアだからこそアメリカ人も勇気を持って彼に告発する。
アジテーションである以上、知的な公平感を求めてはいけないし、こういう映画が社会の一部に必要だ、というより無いよりはあったほうが、よほど世の中面白いと思うが、それでもイギリスの医療制度はバラ色に描きすぎだ。
アメリカの保険会社の取り組み(複雑な約款を設けてとにかく保険料を払わないようにする、それで得た利益を国民皆保険制度の導入を阻止するためのロビー活動に費やす)を告発することと、他国をバラ色に描くことは分けられるべきではないか。ムーア本人も、もうちょっと痩せたほうが保険料安いよ。
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2007年09月06日

静物画

賈樟柯(ジャ・ジャンクー)『長江哀歌』(Still Life)
英題通り、構図が美しい、説明を拒んだ写真集のような映画。
ジャ・ジャンクーの映画はいつも、発展する中国で逞しく生きる庶民の美しさを描いているようでいて、それを無慈悲に飲み込む世界のほうが美しい。余力為の映像の残酷さが際立っている。

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確か第六世代のゴダールと呼ばれた章明(ツァン・ミン)の『沈む街』も、三峡ダムの底に沈むであろう街の日常を丹念に描いた作品だった。川魚を捌く手をしつこくクローズアップしていた記憶がある。
三峡ダムに沈む街とそこに暮らす人々は中国の若手監督の格好の材料なのかもしれない。
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2007年08月16日

ヘルシンキ、ラマンチャ、リオデジャネイロ

アキ・カウリスマキ『街のあかり』@渋谷

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惚れた女に騙された冴えない警備員の男が、その復讐にも失敗するというだけの話なのに、無上の幸福に包まれている。
動きの少ない映像は、紙芝居が一枚ずつめくられていくような懐かしさ。この三部作、『浮き雲』が最高傑作だと思うけれども、無駄をそぎ落として同じテーマを反復しながら、少しずつ差異を積み重ねていく陶酔感は、スティーブ・ライヒの音楽への印象とそう遠くはない。
カウリスマキの映画音楽集『JUKEBOX』を購入。
カウリスマキの映画音楽を通して聴くと、思ったほどノスタルジックではないのが面白い。


ペドロ・アルモドバル『ボルベール<帰郷>』@有楽町

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ペネロペがいい女優になっている。
アルモドバルの女だらけの映画は、男に映画を観る姿勢を問うているようだ。

いかなればまた愁ひ疲れて
やさしく抱かれ接吻する者の家に歸らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき斷崖を漂泊ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!

「漂泊者の歌」萩原朔太郎(『氷島』より)


『This is Bossa Nova』@渋谷

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カルロス・リラとホベルト・メネスカルの陽気な思い出話は納涼にぴったり。
『ボサノヴァの歴史』に書いている以上の話はないが、ナラ・レオンの政治性とその後のボサノバとの決別など全く語られなくても、リオの海はどこまでもきれいで、そこで生まれたボサノバもただ美しい。東京の暑さにやられた私たちにはそれだけでいいのかもしれない。
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2007年07月08日

Sketch of Frank Gehry

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"Sketch of Frank Gehry"シドニー・ポラック監督@渋谷

彼の建築に関心を持ったことはないのに、フランク・ゲーリーそのものは興味深い。絵画や文芸と違い、施主を必要とする建築で前衛であり続けることの困難さを読み取るフィルムかと思ったが、裕福ではなかった少年時代や建築家になる前に運転手をしていた時代を語る姿勢は成功者が苦しい時代を語る際のある種の尊大さからは程遠く、拍子抜けするほど陽気で淡白だ。彼が常に前衛的であるためには、構造解析の技術に長けていなければいけない。背景には高度に知的な調整能力が必要だろう。

建築ではなく、人物とのマッチングを考えたような音楽がとてもいいフィルム。

ラスト近く、ジュリアン・シュナーベルが、「フランクの建築に批判するべき点があるとすれば?」と聞かれて答える。
「彼を批判するのは、虎の首についたハエを殺すようなものだ、あるいは"地獄の黙示録"を観ておいて、ロバート・デュヴァルを批判するようなものだ」
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2007年06月30日

大日本選挙

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松本人志監督"大日本人"
前半の相互不理解の繰り返しが生むグルーヴ感は感動的。
地球を守るヒーローの月給が固定で20万、増えるワカメを愛し、いつも同じ店で力うどんをすすっている。マネージャーのほうが羽振りがいい。ヒーローを金儲けの広告媒体としか見られないこのマネージャーの愛犬の名前が「新橋」と「デリカシー」。
この不条理の連続は低評価のようだが、その人たちもこれがトッド・ソロンズの映画だと言われれば絶賛するのでは。テレビでイメージを確立した人の映画は難しい。
松本人志のコントは昔からテレビで見てきたので映画では不要だと思うが、テレビのダウンタウン松本を求めて来場した観客に対して、小市民大佐藤の暗い描写のままでは終わらせられない興行側のサービス精神が仇になっている。
ここはなんとしても中村雅俊の歌で終わってほしかった。

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想田和弘監督"選挙"
小泉人気の絶頂期に、川崎市議補欠選挙の自民党公認候補を追ったドキュメンタリー。
候補者は、東京で切手・コイン商を営む政治のド素人。
公募から自民党公認を得ているので、箸の上げ下ろしまで選対に指導され続け、最終的には小泉総理の応援演説もあり、際どい得票差で民主党候補を下して当選する。
候補者は、政策についてはほとんど言及しない。ただ、川崎市内を駆け回り自分の名前を連呼するだけ。少なくともフィルムの中で政策について語るシーンは少なく、候補者が政治的ビジョンを持っているとは思いがたい。
候補者が小泉純一郎に似ていることから、構造改革・郵政民営化を連呼するだけの小泉型政治・選挙の縮図として捉えることは容易だが、海外在住の長い監督の意図は小泉政治よりも、日本人の国民性そのものに向けられている。
かつて、きだみのるが指摘し続けた日本のムラ社会のメカニズムが、川崎市という都会でも部分的に機能していることをフィルムに残している。

選挙のディテールは非常に面白い。
・「妻」ではなく必ず「家内」と呼ぶ。フィルムでは、「丁寧に「お」をつけると「おっかない」」というギャグで笑いをとるため、と説明されている。
・握手の時は最後に必ず眼をみる。
・通行人は3秒間しか話を聞かない。必ず3秒に1度名前を言う。
・とにかくお辞儀し、名前を連呼し続ける。電柱にもお辞儀。
・老人会の運動会、幼稚園の運動会、地元のお祭りに参加
・補選なので他の自民党議員の選挙スタッフを動員したため、事務所のスタッフは全員選挙のベテラン。事務所で一番立場が低いのが候補者とその妻。「何をしても怒られるし、何をしなくても怒られる」

自民党のドブ板選挙のノウハウと人員を動員して、地盤も政策を持たないズブの素人を当選させることができた。
ただし、自民党が圧倒的支持率を誇っていた小泉時代の地方選挙であり、小泉首相の応援演説などの後押しがあっても、結果は千票程度の僅差であったことが興味深い。
このフィルムは図らずもドブ板選挙が有効性を失いつつあることも示しているのかもしれない。

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"Zodiac"
未解決事件であることを観客は知っているわけで、それでもラストまで全く飽きさせないのは、すでに証明されたフィンチャーのカメラワークと音楽の安定した実力。
"殺人の追憶"のような、捜査の周辺人物のみならず、観客までを蝕んでいく事件の闇の深さ、徐々に真実が明らかになるほどそれに伴い謎が増えていく手に負えなさが描けていないのは、20年近く経過しているのに見た目がそんなに老けていないという表面的な問題ではなく、もっと根本的なシナリオの問題ではないだろうか。


"Smokin' Aces"アリシア・キーズの涼しい表情は、今後も映画で重宝されるだろう。
序盤でややこしい人間関係をうまく説明した技量は評価できるし、キャラクターも魅力的、中盤のアクションも興奮させる。それが最後の美談で台無しの映画。
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2007年06月22日

one little step

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"Bridge"@恵比寿

ゴールデンゲートブリッジの欄干は海面から60メートルを超える。
この橋はアメリカを代表する観光地でありながら、世界一自殺者の多い場所と言われている。※上右の写真は橋のポイント別の自殺者の数。
ドキュメンタリー映画"Bridge"はそこから飛び降りる自殺者数名を岸から撮影し、それに遺族や友人、たまたま通りかかって助けた人、運よく命拾いした自殺者本人のインタビューを重ねる。

大都市からの近さ、セキュリティ(柵は1.2mで、歩行者が簡単に越えられる)、人間の存在を小さくする壮大な風景といったいくつかの要因が重なり、自殺世界一の不名誉な称号を守り続けているのだろうが、中でも橋そのものが持つ象徴的な意味が重要だろう。
保田與重郎は、橋の日本的意味を道の終わり(端)に此岸と彼岸を結ぶものだと言ったが、作品中でもアメリカ人が橋の向こうに新しい世界が広がっていると思うに至る橋のロマンチシズムが、何人かの証言によって明らかになる。

自殺のシーンをカメラに収めることが残酷だ、ウェルテル効果を招くと批判されていたり、撮影している暇があるなら自殺者を止めるべきだという批判もあるようだが、本質的に残酷なのは、自殺者とその遺族との絶望的な距離をはからずも表している点にある。
多くの遺族が「もっと積極的に止めていれば」と悔やむが、偶然にも一命を取りとめたケヴィン・ハインズのケースで本人と遺族のインタビューを比べれば、「なぜ死にたいのか」「生きるために何が必要なのか」という根本的な理由について、遺族はそのほんの一部分すらも理解していないことが明らかになる。
そもそも「根本的な、あるいは決定的な原因がどこかにあり、その原因を取り除けば自殺しないだろう」という論理そのものが、自殺しない人間の側で成立している、生死とは無関係の小さな問題解決の論理でしかないことに、周囲の人間は気づいていない。
その絶望的な距離感のまま、自殺を思い留まらせようとする助言やアクションの数々は、本人にとって「心配してくれてありがたい」という以上の効果を生まず、時には本人をさらに自殺に駆り立てるような可能性も否定しがたい。

偶然通りかかって自殺しようとしていた女性を助けたカメラマンのコメントは、この映画の制作者をはじめ自殺者を取り巻くすべての人間が抱える宿命的な問題である。
「ナショナルジオグラフィックのカメラマンになった気分だったよ。虎がこっちに向かって走ってくる。ファインダーから除くと、決定的な瞬間だと思ってシャッターを切る。でも逃げるのを忘れている。」

生物と無生物のあいだ』によれば、「生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している。」
そのダイナミズムを前提として、動的平衡という熱力学の原則を応用した生物観を提示する。
「もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積するよりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは、増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる。
 つまり、エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ」

生命のダイナミズムと呼応するように、精緻であっても分解可能な構造として人生を捉える思考方法、つまり巷の雑誌に載るような、要素に分解して問題の原因を特定し取り除くというような「問題解決型の論理的思考」は、命のあり方への本質的アプローチとしてははなはだ不十分なのではないだろうか。命を絶つという行為は不断に分解と再構築を繰り返す一連の感情の「流れ」の小さな一歩に過ぎないのかもしれない。
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2007年06月06日

ロストロポーヴィチの妻

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ソクーロフの「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」@渋谷イメージフォーラム

"Elegy of Life. Rostropovich. Vishnevskaya"という原題が語る通り、ロストロポーヴィチと妻ヴィシネフスカヤの二人の物語をソクーロフは巧みにカメラに収めている。

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右はヴィシネフスカヤとソルジェニーツィン夫妻

おそらくソクーロフは最初、20世紀最高のチェリストでありソビエトによる市民権剥奪後、世界市民として平和の使途となったロストロポーヴィチのドキュメンタリーを撮りはじめたのだが、撮り進めるうちに妻のガリーナ・ヴィシネフスカヤにどんどん関心が沸いて、最後はヴィシネフスカヤの映画になってしまったのでは、と観客の想像をかきたてるほど、ヴィシネフスカヤの陰影に富む人格は、周囲を包み込む魅力と何者も寄せ付けない迫力が同時に溢れている。
20世紀最高のチェリストといえばカザルスでありロストロポーヴィチであって、二人とも祖国を追われ、音楽をもって世界にメッセージを発し続けた伝説の闘志だが、ロストロポーヴィチについては、妻の存在なくして彼の精力的な音楽活動もなかっただろうと思わせる。
チェリストの息子として生まれたロストロポーヴィチとは対照的に、ヴィシネフスカヤはロマの親のもと、育児を放棄されたまま育ち、初婚での赤ん坊をレニングラード包囲時に亡くすものの、正規の音楽教育を受けないまま異例の抜擢でボリショイのプリマドンナになったという人物。80歳に近い現在も、その美貌は衰えていない。現在もロシアの声楽教育に情熱を傾けている。
各国の王族とも友達のように陽気に話し、笑顔を絶やさず人前で踊っておどけてみせる少年のようなロストロポーヴィチとは対照的に、隣にいる彼女の表情は母の慈愛の奥に深い憂いを帯びながらも、女帝のような威厳を保ちつづける。ロシア音楽の歴史全てを一身に背負っているような、稀有な存在感。
ソクーロフはご機嫌な旦那の撮影は早々に切り上げ、彼女の表情を追い続ける。映画のラスト、夫婦の金婚式のパーティ、上機嫌のロストロポーヴィチの横で、無言のまま、毅然と正面を凝視するヴィシネフスカヤを長く撮る。
ソルジェニーツィンやショスタコーヴィチを擁護して市民権を剥奪されたロストロポーヴィチが、それでも「ロシアを離れたくない」と不安になる中、夫の弱る心を支え、叱咤しながら亡命を果たしたのはヴィシネフスカヤだ。夫婦愛でもあり、ロシアとロシアの音楽を自分たちが守るという強い自負でもある。ロシア人は何でも歌えるが、イタリア人にムソルグスキーは歌えない、それがロシアとイタリアの差だ、とヴィシネフスカヤは言う。唯一自分たち夫婦こそがロシア音楽を守る資格があると言わんばかりの使命感。
彼女は後半、「死ぬのは怖くない、他人が死ぬのは怖いが」と意外な言葉を口にする。実際にそのすぐ後、本年4月にロストロポーヴィチは他界した。ヴィシネフスカヤの言葉は、彼女の苦難の人生、夫の才能を支え激励し続けた人生への、深い洞察がある。
映画の末尾、ロストロポーヴィチによる、小澤征爾指揮のウィーンフィルと共演したペンデレツキのチェロ協奏曲を一通り聴けるのかと思いきや、作曲家も交えたリハーサル、本番、ヴィシネフスカヤによるオペラの指導風景が交互に映される。クラシックファンの観客の期待を軽やかに裏切ったソクーロフが最後に映すのは、先ほどの金婚式で、難しい、苦しい表情のままだったヴィシネフスカヤが、静かに笑う姿だ。いや、それが最後のシーンだったかは忘れたが、それ以降のシーンが思い出せない。
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2007年05月20日

殉教の論理

『パラダイス・ナウ』ハニ・アブ・アサド監督

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幼馴染サイードとハーレドは、イスラエル占領下のパレスチナ人として、ともに貧しく希望のない日々を送ってきた。民族の誇りを奪われた屈辱を糧とし、パレスチナの独立を回復する聖戦のために死ぬことを目標に生きている。同じ環境で同じ目標をもつ二人の運命は自爆テロの目前で、運命を分かつ。
自爆テロリストの正体』がレポートしているように、自爆テロでの殉教は、現在は目標を見失った若者の自分探しと自爆テロリストの供給を継続的に必要とする組織の論理とがマッチングした結果でしかないという極めて現代的な状況は、本作においても、組織の人間達の描写によって明らかになっている。組織の幹部達は殉死の意義を幾分かの嘘を交えてマニュアル的に二人に説きつつ、二人の逡巡よりも計画の予定通りの進捗を最優先に意識してテキパキと事を進める。
本作はそこからさらに進んで、同じ環境で育ち暮らしていながらも、自爆テロを決行する者と最後に踏みとどまる者の決定的な違いを、それぞれの家族の関係に見出す。
ランド・オブ・プレンティ』でヴェンダースがPCの画面の向こうに描いたパレスチナ問題は、ここでは徹底的に個人の生活の一部として描写される。決行の宣言をビデオに撮ろうとしてもカメラが壊れて撮り直しが必要だし、組織の幹部はカメラの後ろでピタパンを食べている。安くて性能のいい水の浄水フィルターを見つけることは家族の重大な課題だ。爆弾を身体に貼ったテープは、はがす時に痛い。
妊婦の腹や魅力的な料理のシーンを描いたスピルバーグが『ミュンヘン』でこれらのディテイルについては描かなかったように、本作も主人公の母親の料理は手元から映していても、自爆テロのシーンはついに登場しない。自爆テロは徹底的に個人的な行為であって、政治やイデオロギーはその借景に過ぎない。映画的カタストロフィーそのものがハリウッドの政治すなわちイスラエル的であるという洞察か。
字幕監修は重信メイ。映画には英雄の娘と密告者の息子が登場するが、彼女はこの二組の親子の物語をどう捉えているのか、パンフを買わなかったのでわからないが、読まないほうがよい気もする。
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2007年04月15日

蛾の夢

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ツァイ・ミンリャン監督『黒い眼のオペラ』(英題:I don't want to sleep alone)

長回しでセリフの極端にないこの映像作家の前作『西瓜』が年間の興行収入一位になるという、台湾の映画鑑賞事情は興味深い。台湾の映画ファンは映画に何を求め、侯孝賢や蔡明亮の透徹した眼はどのように生まれるのだろう。

暑い上に湿度が高く粉塵が舞うマレーシアの路地を、何も持たないがマットレスだけは担いで移動する移民労働者。洗い、蚊帳を張り、虫を払い、寝床だけは執着して守る手順を、監督は視点を固定して省略せず長回しで撮る。セリフはほとんどない。
女に看病される寝たきりの男は上空を見続け、その先にはもう一人の自分がいる。男はマレーシアの底辺を彷徨い、添い寝の相手を夢想しているのか、ビルの廃墟で弱々しく水面を羽ばたく蛾は、男の分身か。

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共同体とは普通、何かを、たとえば言語やものの見方や考え方を、共有している人びとが形づくっているものだと考えられている。また、一つの民族、都市、制度といったものを共に作っている集団によって形づくられると思われている。けれども私は、すべてを残して去っていく者、すなわち、死にゆく人びとのことを考え始めた。死は一人ひとりの人間に一つひとつ別のかたちで訪れる、人は孤独のなかで死んでいく、とハイデガーは言った。しかし、私は病院で、生きている人が死にゆく人の傍に付き添うことの必然性について、何時間も考えさせられた。この必然性は、医師や看護師、つまり、できることをすべて行うためにそこに居る人びとだけのものではない。死にゆく人に最後まで付き添おうとする人、打つ手が何もなくなったのに居つづける人、自分がそこに居つづけないわけにはいかないと切実に感じている人にとっての必然性でもある。それは、この世で最も辛いことではあるが、人はそうすべきだとわかっている。死にゆく人が人生を一緒に生きてきた親や恋人だから、という理由だけではない。人は、隣のベッドで、あるいは隣の病室で、まったく知らない人が孤独に死につつあるときにも、そこに居つづけようとするのだ。(アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』野谷啓二訳)

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