『帰らない日々』
『告発のとき』
闘うことよりも、闘いを降りることのほうが勇敢である。そんな場面は多い。闘う勇敢さも誰もが語る。闘い方はどこでも学べる。そこでそんな闘いから降りろと言ってやれるのは家族以外にあるだろうか。
映画の三組の父子いずれも、父が子を助けてやることができない、父子の断絶は勇敢であることの断絶である。
悪者に虐げられた善良な人が助けを求めていて、あとは舞台袖から出てくる正義の味方を待つばかり、そこで最強の武器を渡されているならば、誰もが勇敢なヒーローになれる。アメリカにはかつて確かにそういう時代があった。
父は子に勇敢であれと語りかけるが、今や子は救うべき善人も見失い、闘うべき悪者も霧の中にいる、あとは父親の期待に応えるためだけに勇敢であろうとするならば、残酷な結果にむけてストーリーが進むしかない。
アメリカの父親が示すべきであったろう勇敢さや正義が、アメリカが国の成り立ちとともに体現したそれらと共振して崩れてきたのが、911以降、本当はベトナム以降の世界であった。
『告発のとき』の原題は"In the Valley of Elah"、幼いダビデが巨人ゴリアテを倒した「勇敢さ」を、T.L.ジョーンズが語っても、子供は理解できない。なぜ闘う必要があるの?
そして映画の観客も、旧約聖書のこの一エピソードを理解できない。
わからなくとも、とにかく勇敢であれというメッセージが全てを了解させる世界は、闘う理由が問われることはない。
闘わず解決する可能性、闘いが弱いものいじめでしかない可能性、闘いで失うもののほうが大きい可能性、勇敢な妥協・勇敢な撤退の可能性。これら闘わないためのあらゆる可能性を閉ざした、闘うことに疑問を挟むことの決してない世界での勇敢さが、ある世代までの実に限定的な勇敢さであったと今アメリカが振り返ろうとしているのであれば、未来は決して絶望的ではない。断絶を乗り越えるためにこそ、映画が断絶を描いているのだと考えたい。


