まず表現を選択できることだという。例えば蚊は二酸化炭素と温度に反応してその対象を刺すが、刺すか刺さないかを蚊が選択できるのであれば意識である。また選択にあたっては対象の情報(蚊の場合は二酸化炭素と温度についての情報)を、選択する短い時間は記憶する必要がある。また選択はランダムにではなく根拠に基づいて行われる必要があり、根拠が存在するためには過去の記憶・経験から選択の根拠を生み出す可塑性が必要である。つまり意識がある状態とは、短期と長期の記憶に基づき選択可能な状態である、と池谷は規定する。
脳死臓器移植をめぐる論点は多数あり、脳死判定基準自体も議論の対象となっているし、脳死判定から臓器移植へ至る医療現場の制度運用にも多くの課題があることが報告されている。中でも反対派の論拠の一つは、「脳死(と判定された)患者に意識が残存している可能性がある」というものだ。
例えば小松美彦の『脳死・臓器移植の本当の話』
小松の著作は医学的な死の判定と感情的な死の受容にまつわる議論が混在していて、全体が情緒的な印象があるし、伝聞情報や、新興宗教系出版社の雑誌記事を反例として使うなど語り口の偏りが気になるが、一貫して脳死臓器移植反対の立場から、脳の機能を医療現場が測定しうる限界を示しているのは興味深い。
池谷の本に戻れば、交通事故で植物状態になった患者に対してfMRI(脳の活動の測定方法の一つ)で測定した結果が2006年のサイエンス誌に報告されている。
患者に、意味のない文字の羅列と、意味を成す文章をそれぞれ聞かせた場合、意味のある文章を聞いた時だけ、健常者が反応するのと同じ脳の部位が反応を示した。また患者に「テニスをしているところを想像してください」「自宅の部屋を歩き回っているところを想像してください」と質問したところ、それぞれ健常者と同じ脳部位の反応がみられた。ただしこれをもって「意識がある」とする論文執筆者に池谷は同意しない。意識の存在を示すには、前述したようにあくまで選択可能な状態であることが必要であり、あるインプットに対してある特定のアウトプ
ットを返すだけでは、それが意識だとは断定できないとする。
しかし池谷の言うように選択ができたとして、その選択もアウトプットであるから、ある条件に基づき機械的に選択される状態であれば反射であり意識とは言えないはずである。ある根拠に基づく選択は、その根拠が明確であればあるほど、インプットとアウトプットが一意に対応することになる。結果、ある表現を選択したとしてもそれが意識による選択か反射の結果かは立証が不可能となる。いずれにせよ意識の定義は科学者の間でも意見が分かれており、おそらく反射と意識は独立した反応ではなく、連続的な機能であって、人間はあるレベル以上の複雑な反応を意識と定義するしかないし、経験的にはそうしているのだろう。
死の定義も、同じように連続的な生から死への変化をある段階で切り取って定義するしかない命題である。池田清彦の『脳死臓器移植は正しいか』
人の死を判定するタイミングを、心臓死(および三兆候による判定)から、その手前の脳死まで引き戻そうとるす本質的な動機は、「意識の死が人間の死である」という脳への理解ではなく、臓器提供をするために三徴候死では間に合わない、という医療サイド(レシピエント−移植医)のニーズと思われる。
しかし現段階の脳研究では、ドナーの意識の有無を完全に測定する方法を持ちえていない。現行の脳死判定基準で判定される脳死では、意識(小松の著作では、脳幹における覚醒と大脳皮質における認知機能のこととされている)か完全、不可逆に存在しないことを立証できない。
そもそも、意識がいかなる条件に基づいて成立するのかという議論自体が収束しておらず、その状態で医療現場で脳死判定を行うのは、制度が研究を越えて一人歩きしていると言わざるを得ない。ならば研究成果よりも先行して脳死患者から臓器移植を行う是非が問われなければならないし、それでも社会的に有意義な制度だったとしても、研究を超えて制度運用がなされている状況を踏まえて私たちはドナーカードの保持について意見表明しなければならない。現在日本では臓器提供について「NOでなければ同意」と見なすコンセンサスができつつあり、「死の自己決定」を強いる息苦しい社会に生きている。
もっとも、脳死臓器移植制度は、脳と意識についての問題以前に大きな課題を抱えている。現実的にはガイドラインに規定された手順での脳死判定と臓器摘出は困難であり、ガイドライン違反も不問に付される可能性が高い。
また、放置すれば脳死となる脳障害を負った患者に対して、治療ではなく臓器移植準備を行う可能性がある。脳低温療法など最新の治療による回復の可能性に賭けるよりも、ドナーカードや家族の同意があれば治療に優先して臓器移植の準備を行って、患者の死期を早めてしまう可能性がある。さらに、無呼吸テストなど脳死判定方法自体が脳障害を負った患者にとって大きな負担になり、脳死に至らない重度の脳障害の患者が、脳死判定によって脳死する可能性もある。
資本と権威を持つ集団(富裕層、大企業、医療機関など)が実現を求めることは、いずれ実現する。臓器はドナーとレシピエントの数が対応しない圧倒的な希少財であるから、犯罪の温床になりやすいし、公正な市場が成立しにくい取り扱い困難な財で、本来市場に投下されるべき財ではない。しかし財政の逼迫する日本では、経済合理性に基づいた要請に対して、倫理に立脚して抵抗することはいずれの領域でも困難で、脳死や尊厳死においても、一般市民には「高額で難しい治療よりも死」を社会が無言で要求し、一方で「富裕な人のみが受けられる先端医療」が「医療のフロンティアを切り開く」美名のもとに確立している。
人の死が「社会的コンセンサスによる判定」から、「自己決定と自己責任」の領域にシフトしている。日ごろから死について考え、自分の死に方を決定し表明し続けなければいけない社会が幸福な社会と呼べるのかわからないが、もはや避けられない道であることは疑い得ない。


