墨を塗りながら、子ども心におもしろく思ったのは、新聞雑誌の訂正広告と同じで、ああここが具合が悪くなったのだなと、かえってはっきり分かり、印象づけられたことだ。同時に、墨を塗ればなかったことになるというのも、なんだか不思議だと思った。これはやはり、「文字に記されている」ということに、異様な価値を与える文化が生む思考であろう。中国政府が、日本の歴史教科書に「書いてある」「書いてない」に極度にこだわるのも、漢字文化圏の、日本の先生であるなら、そして文字に書いてあるかないかということしか、明白に押さえられる証拠がないから、仕方がないといえるのかも知れない。実際には、生きた子どもというのは、教科書に「書いてあること」だから、そのまま真実だと思うほど単純ではない。文字に書かれたことにこだわりすぎるのは、文字をそのまま反映して考え、動く主体性のないロボットのように、生徒をみなすことに通じかねない。
この体験をしてから十七、八年後には、私は西アフリカのサバンナで、「文字を必要としなかった」人たちの、豊かな声の表現の世界や、歴史意識や太鼓ことばの研究に没入しはじめる。絶対に墨を塗れないし、「なかったこと」にもならない、このサバンナの声と口伝えの世界。七〇〇話ほど私がライブ録音した、乾季の村の夜、夕餉の後の熾火のまわりに皆集まって、昼の秩序では抑圧されている「女、子ども」が中心になって、実にきれいな声で生き生きと語るお話でも、現実の世界で威張っている王様は、例外なく、からかわれ、だまされ、過激なものでは日本の昔話の「俵薬師」と似た筋で、沼に放り込まれてしまう。(「日本を問い直す」、「現代思想」2008年3月号
とてもとても美しいので見つめるたびにもうすっかり嬉しくなってしまうような娘の隣りに坐って、借りもののジープでニュー・メキシコ州を走る、人生はそういうふうに単純なのだ。
もし、人間にはちょっとした思いやりが必要だと考えないですむのなら、この話はおかしな話だ、といえるのだろうが、でも、ほんとに、ちょっとした思いやりを探し求めて人々が経験しなければならないくだらなさは、ときに、もの悲しい。
『芝生の復讐』


