亀山郁夫による『カラマーゾフの兄弟
沼野充義が、この新訳のリーダビリティについて「あえて」批評を加えている。(「UP」08年2月号「薄餅とクレープはどちらが美味しいか?」)
「さあ、話はこれぐらいにして、あの子の供養に行きましょうよ。あんまり気にせず、クレープを食べてくださいね。ずっとづついているよい習慣なんですから」アリョーシャは笑いながら言った。(第5巻、P63)
この「クレープ」の原語は「ブリヌィ(bliny)」である。作り方はクレープに近いが、「味わいも、宗教的・文化的意味も、クレープとはぜんぜん違う」。ナボコフもこの違いを力説していた。先行の訳では、米川正夫は「薄餅」に「プリン」とルビを振り、小沼文彦は「パン・ケーキ」、原卓也は「ホット・ケーキ」と訳した。いずれも日本人の世界観におけるブリヌィの近似的な置き換えである。
沼野は大江健三郎の近著『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ
もちろん日夏の訳文はあまりに特殊で一般化できないが、沼野は翻訳が持つ3種類のストラテジーを分類する。
1.翻訳先言語に商店を合わせ、異質な要素を翻訳先の文化の文脈に適応させる(『カラマーゾフの兄弟』の「クレープ」)
2.翻訳先にとって異質であってもあくまで原語に忠実を目指す(学者の翻訳に多い)
3.1と2の両者の間に立って、第三の原語を作ろうとする媒介的な翻訳(ベンヤミンが言う「純粋原語」に近いもの)
のうち、世界文学は3で展開されるべきであると締め括る。
一般的には、かつてドナルド・キーンが太宰治の『斜陽』に登場する「白足袋」を「white gloves」としたような、1.のパターンが名訳として称揚される。翻訳先の世界観で近似的な存在のものに置き換えることで原文の世界観を受容しやすくする技術はたしかに必要であろうが、外国文学を読む一つの意味である、原文の、つまり外国の世界観を知る機会を逸している。
個人的には「ブリヌィ」や「白足袋」のまま、その文化的な意味についての注釈があるのが望ましいが、造本コスト、リーダビリティをどこまで犠牲にするのか、そして第三の媒介的言語は、単に第一と第二の対立を超克するという目的で生まれた理念的な存在ではなく、現実的な翻訳技術として成立しうるのか、その困難さを想像せざるを得ない。


