2009年08月12日

アウトサイダーアートについて

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岩手の障害者施設に暮らす戸來貴規は、文字がつくる線の間を塗り潰すことで幾何学模様になった「日記」を1000枚以上、毎日綴っている。その美しい幾何学模様が実は文字であり、日記であると職員が気付き、作品として世に送り出されることとなる。

 芸術表現の一側面を「存在そのものの暗号化」と呼びうるとすれば、批評の役割はそれを解読することである。おそらく「インサイダー」の暗号はコンヴェンションの知識だけでも解読できる。しかし「アウトサイダー」の暗号は、彼ら自信と関係しなければ解読できないことが多い。なにも、個人史や個人病理に注目せよというわけではない。ただ彼らの傍らに寄り添うことが、作品への視線を深くする場合があるのだ。
 批評における関係性の比重という点においても、「イン」と「アウト」の区分は、やはり暫定的には擁護しておかざるを得ない。
 繰り返そう。戸來に寄り添った職員たちは、彼と「関係」することで、彼だけが秘めていた創造の「回路」を見出した。彼女たちのひとりは、次のように述べる。
「どこひとつとっても、全部に戸來さんのオリジナルな部分がちりばめられている。そして関われば関わるほど、いろんなことが発見できる。ほんとに何か見つけるたびに戸來さんをぎゅっとしたくなるような作品です」。(「関係することがアートである」斎藤環著「美術手帖」09年7月号)

美術教育であろうが障害の種類であろうが制作者の属性の「アウト」と「イン」の区別によるアウトサイダーアートの定義には、そのアートが鑑賞者にもたらす力を捕捉できない以上限界がある。鑑賞するものが創造者の回路に触れ、不可逆な変化を遂げる。その過程を経なければ作品に触れた者が意味のある言葉を生み出すことができない。アウト/インの境界をめぐる議論に終始する限り、その境界の前に踏みとどまり意味のある言論は成立しない。その境界を軽々と超えていく、創造者と鑑賞者が寄り添う精神の運動の中に発見されるべきアートが、アウトサイダーアートである。
粗暴で手の付けられなかった戸來が、彼の日記を発見し解読する職員との対話により徐々に心を開き、職員は「ぎゅっとしたくなる」感情を抱くに至る。「インサイダー」の鑑賞や解釈では生まれえない、存在を揺るがすような変化の過程にこそ、アウトサイダーアートのもたらす力を見出すことができる。


posted by ysms at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 01 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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