「目的地」に行き着くことではなく、道を歩くこと自体へと、価値の眼差しが「反転」すること。それは、ある意味では「生きる」こと自体を楽しむ姿勢であると言ってもいい。私たちの「生」は何かの「ため」の手段ではなく、今・ここの「生」を十分に味わうこと自体が、豊かに生きることなのだ・・・・・・というように。
(中略)
しかし、その自己目的的な「快楽」をポジティヴに言い続けることもまた、どこか強迫神経症的であり、別の何かから逃げ続けているように見える。 つまり、そのような自律的で自己目的的な「豊かな生」は、「虚しさ」や「退屈」を忘却しようとすることと紙一重である。
(中略)
私たちの「生」は、絶対的で最終的な「目的」や「意味」など持たない。そんなことは、ごく当たり前のことにすぎない。にもかかわらず、ことされそれを、今・ここの「輝き」や「快楽」を称揚するために持ち出すとすれば、それはむしろ、ただの当たり前の事実に耐えられず、「輝き」や「快楽」をことさら言い立てることによって、実は「目的」や「意味」の欠如を忘れたい、ということだろう。
間違ってはいけないと思う。情報の「海」の快楽に潜む「ニヒリズム」とは、私たちの「生」に絶対的で最終的な「目的」や「意味」がないということではない。その事実を知っているふりをしながら耐えきれず、価値の眼差しを「転倒」しつつ、それらを何とか楽しく忘れたいということこそが、ニヒリズムなのである。ニヒリズムとは、生の無意味さ自体のことではなく、無意味ということ自体を意味化してしまわざるをえない「病」のことなのである。(『足の裏に影はあるか? ないか?』入不二基義著)
真の虚無を生き続けられる人はいない。ニヒリズムは価値や目的の不在という真実を隠蔽し、無目的な快楽に救済を求める姿勢において、虚無を虚無のまま受け入れられない自己矛盾を内部に抱えている。そして人がニヒリズムに魅せられる理由は、虚無の直視ではなく虚無の隠蔽というウェットで不徹底な姿勢にこそあるのだろう。
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