』は書き起こされていたと記憶している。
事故とその責任追求を恐れ規制だらけの日本社会で、自由と自己責任の文化を育てようと主張する小沢に、当時の日本人は新しい何かを感じていたはずだ。その後小泉政権に引き継がれたその国家観の末路は誰にもわからないし、小泉も小沢ももういない。
「Atlantic」誌08年11月号で、記者のジェフリー・ゴールドバーグは、アメリカの空港での搭乗検査をあざ笑うかのように、危険なモノを機内に持ち込むことに成功する。アルカイダのTシャツ、イスラム聖戦旗、ヒズボラのビデオテープ、アラファトの空気人形、ポケットナイフ、ベイルートとペシャワールのホテルのマッチ、防塵マスク、ロープ、ライター、爪切り、8オンス(220ml)の歯磨き粉、外国の水、カッター。これらをこっそり機内に持ち込もうとして、何十ものセキュリティゲートを通るが、4回だけもう再検査され、爪切りとシェービングクリームの缶を指摘されただけであった。ある空港では、胴体に装着した80オンス(2.2L)のビールを入れられるBeerbelly(ビールッ腹)という器具はセキュリティーを通過したが、手荷物の8オンスの水の瓶は没収された。
ゴールドバーグは、TSA(アメリカ運輸保安局)の職員によるセキュリティチェックは、厳しいチェックの体制を見せることで乗客を安心させる、劇場的な効果しかないと結論づける。
実験したようにテロリストを空港で摘発することはできない。それならば、貴重な税金は、テロリストが空港に来る前の諜報活動に費やされるべきではないか、と。
米国は自由で自己責任、リスクを取る文化がありセキュリティも軽い、日本はその逆でリスク回避的国民性あるという単純な図式で国民性や政治を捕捉しようとする議論には無理が多い。
イラク攻撃に見られる米国のリスクテイクは、多くの攻撃と同様、リスクを過大評価する不安に背中を押された結果だと知ったならば(1%ドクトリン)、リスクを把握できず恐怖をコントロールできないという意味で日米に大差はない。
アメリカの手荷物検査も、ロンドンの監視カメラも、一度不安に陥った人間が微小なリスクを過剰に回避する心理から抜け出せないというプロスペクト理論の好例である。文明社会の不安は見えない敵を生み、安全よりも安心のために多くのエネルギーを消耗するが、安全が強化されるほど安心からは遠ざかるという逆説を生きなければならないのは洋の東西を問わない。
「グラン・トリノ」で、隣に越してきたモン族の内気な少年にセルフメイドな男のあり方を教える頑固老人イーストウッドは、同じ骨法であっても『初秋』で依頼人の息子を一人前のマッチョな男に鍛えようとする
スペンサーは闘い方を教えたが、イーストウッドは攻撃と復讐の連鎖を断ち切るために自ら差し出すもの、つまり犠牲のありかたを少年に教えることになる。
内なる恐怖の根源と対峙しなければ、恐怖は取り除けない。
先制攻撃と、セキュリティ強化による防御は、恐怖そのものを何ら減じないという点で同工異曲でしかなく、攻撃と防御は表裏から手を組んで恐怖を隠蔽し、不安を増大させる装置である。
劇中、銃を向けて不良を敷地から追い出し、不良のアジトに乗り込んで相手を殴ったイーストウッドが、攻撃と防御を超えた地点から難題を解決するに至るまでには幾多の犠牲を伴った。
犠牲を差し出すことを拒んだ私たちは、犠牲の向こうにイーストウッドが見たユートピアとは正反対の、過防備、過監視、過攻撃社会を生きていかなければならない。
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