レーニンはローザ・ルクセンブルグを評して、「鷲は鶏よりも低く飛ぶことができる。だが鶏は鷲ほど高く飛ぶことはできない。ローザはいろいろと誤りをおかしたにもかかわらず、なお依然として鷲であったし、また現在も鷲である」といった。(※)
革命家は鶏より低く飛べる鷲だとすれば、彼も同様に鷲であり続けた。
革命家と革命を主導する人間は違う。革命の主導者にとって革命は政治体制刷新の手段だが、彼は命を賭して一切の政治的解決を拒否し、首尾一貫して革命家であった。生きながら革命という抽象的な概念の象徴であり、破壊や断絶という歴史の中の点を、線や面として生きなければならなかった。リンギスは彼を地上に存在しない抽象的な“男”の象徴とみた。
だがもちろん、一人の生身の人間が何かの抽象概念を象徴し続けることなどできるとは思えず、革命に勝利することはできても革命家でいつづけることは不可能だと誰もが考えただろう。
それが喘息持ちの金持ちの息子であればなおのこと不可能であると思う。ボリビアの政権もCIAも、革命軍の仲間すらも同じ疑問を抱いた。
だが彼は革命にこそ自分のふるさとがあるかのように慈しみ、また革命家を人の高度に成熟した段階であると定義して、銃を持ち山中を歩いた。
ソダーバーグはラテンアメリカの反米主義の隆盛と関係付けて、革命をロマンチックに描いたり、能天気にゲバラをアイコン化することを丁寧に避ける。
本作でゲバラは多くを語らず、他の共産主義者との連携を拒否し、軍規を乱した隊員を粛清する。
起伏のない地味な闘いを継続するために、組織のテンションを維持することに苦心するゲバラの姿は、Tシャツにプリントされた英雄とは程遠い。
2作目においてその傾向はいよいよ強まり、映像は説明を拒否し、ボリビアの山中を、仲間が斃れながら敗走し続ける一行を突き放すように映す。
食料・武器は減り、隊員も苛立ち、CIAが支援する政府軍の情報戦にも破れ、喘息の発作も起き、革命の目的であったはずの農民の支持はついに得られない。
山岳地帯でメディアもなく都市の暮らしも知らない自給自足の農民にとって、革命は、医師でもあるゲバラが家族の病気を治してくれる以上の価値を持たないのだ。
行軍を追う映像は単調で、劇的な戦闘も、情熱的な演説も美しい回想もなく、ソダーバーグは勇気を持って革命軍を退屈に撮った。
ボリビアでのゲバラは理論的にも実践的にも誤謬を重ねた。革命は苦しく、その苦しさが人を革命家へと成熟させるとゲバラは信じ、多くの人に裏切られ、喘息の発作のまま葉巻を燻らした。
ただそれだけの不毛な行軍だからこそ、ゲバラがゲリラの仲間も共産党も農民も、乗っているロバすらも否定して、革命に対してだけ忠実であろうとした。グランマ号から海を眺める彼の目から、革命家としての純度と強度だけは痛々しく伝わる。
※ ローザ・ルクセンブルグ『獄中からの手紙 (岩波文庫)』訳者解説より
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