2009年01月22日

創設について



アメリカ人による憲法崇拝を考える場合、崇拝の対象は"constitution"、つまり書かれた文書としての憲法と同時に「構成する」行為でもあるとアレントはいう。

百年にわたり非難されてきた憲法が、なお崇拝の対象であるという奇妙な事実が導くのは、
新しい政治体を積極的に創設したという出来事それ自体の記憶が依然として続いているために、この行為の実際的結果であるこの文書そのものが敬虔な畏敬の雰囲気のなかにずっと包みこまれていて、この雰囲気のおかげで出来事と文書の両方が時間の攻撃や環境の変化から保護されてきたのであると結論したくなるだろう。そして、教義の意味におけるconsttitutionの(憲法典についての)問題がもちあがるべあいでも、その行為そのもの、そのはじまりそのものが記憶されているかぎり、共和国の権威は安全であり、無傷のままであろう、と予言さえしてみたくなるだろう。

「はじまり」は神秘の絶対者によるものではなく、はじまりの行為そのもののうちにあったという。
 アメリカ革命の人びとが自分たちを「創設者」と考えていたという事実そのものが、新しい政治体の権威の源泉は結局のところ、不滅の立法者とか自明の真理とかその他の超越的で現世超越的な源泉なのではなく、むしろ、創設の行為そのものであることを彼らがいかによく知っていたかを示している。
アメリカ革命の人びとにかんするかぎり、彼らが完全に知っていた創設伝説は、ただ二つしかなかった。イスラエル人のエジプト脱出という聖書の物語と、燃え落ちるトロイをのがれたアエネアスの放浪というウヴェルギリウスの物語である。二つとも解放の伝説であるが、一つは奴隷からの解放、いま一つは殲滅からの解放である。そしてこの二つとも、中心のテーマは約束の地の最終的制服か、あるいは、ヴェルギリウスがその偉大な詩の冒頭ですでにその現実的な内容を示しているように、新しい都市国家の創設であるか、ともかく将来の自由の約束であった。

伝説は、新旧の秩序の断絶、「裂け目」だと教える。
それは、自由は解放の自動的な結果でもなければ、新しいはじまりは終りの自動的な帰結でもないということである。革命は、終りとはじまり、もはや存在しないもの(no longer)とまだ存在しないもの(not yet)との伝説的な裂け目にほかならなかった。

危機のたびに時代は英雄と伝統を創造してきた。先達の築いた栄光の原点へ回帰するべく、英雄は破壊と建設の裂け目に表れ人々を導く。
原点回帰、つまり海を渡り苦難を乗り越え国家を築いた着いた先祖の創設の精神へ回帰せよとアメリカで繰り返し説かれる。危機意識から生まれる国民の結束は、連続する栄光の歴史の主体であるという国民の自意識をより強固にするだろう。その主体は主体を際立たせる他者を求め、外国とマイノリティがその他者を演じる。
海を渡り国家を築いた人々の末裔でも、奴隷として渡来し辛苦を舐めながら公民権を獲得した人々の末裔でもなく、創設や革命の伝説とは無縁に「ただそこにいた」始原を持たない先住民は、伝統回帰の時代において、創設の歴史を共有しない他者としてさらに際立つだろう。
そして、アメリカで伝統回帰と軌を一にして、アメリカと創設伝説の水脈を同じくするイスラエルにおいても建国の伝説は強固になり、ただそこにいた「他者」への排斥が矛を収める日は益々遠のくに違いない。
posted by ysms at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 01 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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