つまり、丹下さんは日本の国情に合わせて商業建築家として帰還した
磯崎新の、師匠丹下に対するこの発言を、藤森照信は自著『丹下健三』に引用しようとしたところ、出版前、丹下によって削除を命じられた。
戦後、国家そのものを体現しつづけた大建築家丹下健三が、大坂万博以降は国家のほうから距離を置かれ、失意のまま中東で仕事をした後、バブル前夜の日本に帰還した。帰還後の丹下の仕事ぶりは、磯崎の目には「余生」にしか映らなかった。そんな寂しさが生んだ発言であった。
『磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ』
コンペの説明会、丹下は車椅子で登場した自らの師である前川國男とも、弟子である磯崎新とも言葉を交わさない。
「ぶっちぎりで勝とう!」と連呼する勝負師の執念は、周囲も驚くほどであった。
本書によれば、もとより新都庁舎は鈴木俊一都知事と丹下健三のためのコンペであった。
鈴木の都知事選の後援会会長は丹下であった。鈴木は選挙公約に財政再建を掲げたが、当選の半年後から都庁移転の働きかけをはじめる。そこで鈴木が議会と都民の説得のために活用した私的諮問機関のメンバーにも丹下は名前を連ねている。
新宿副都心建設公社の初代理事長であった鈴木は新宿への都庁移転へ執着を隠さない。各種公共施設を都内にバラ撒いて、反対派を黙らせる。
コンペは公募ではなく指名制をとった。公募では時間的に無理だったと都は説明するが、鈴木が三選した場合の任期(90年)に間に合わせるために、そこから逆算してコンペの期間が決められたのが実情だ。
コンペ期間は短かったが、丹下事務所は一足先に準備をはじめていたことが証言で明らかになっている。
要するに、新都庁舎は鈴木俊一都知事のモニュメントなのである
コンペの指名基準は、100m以上の高層建築の実績が重視された(磯崎アトリエ以外の8社は実績があった)が、審査員10名のうち9名は実績がない。実績がないメンバーで審査をしなければならなかった。海外審査員も招待されなかった。
また、審査員のうち7名は、丹下が発案した「東京都設計候補者選定委員会」のメンバーであった。丹下が設立した委員のメンバーが、丹下を応募者とするコンペを審査するという形態をとった。
さらに、「審査員に対するプレッシャーが強過ぎて」という理由で、審査過程は非公開とすることが決められた。コンペ参加料は2000万円。
多くの問題含みのままコンペは実施され、下馬評どおり丹下が勝つ。
磯崎の低層案は予想通り敗れたものの、奇妙なことに驚くほど似たモチーフが、丹下の後の仕事に現れる。
磯崎は当時、表面的には縦割りでツリー状に見える組織図の奥に、「錯綜体(リゾーム)」として横に活発に動く仕事のイメージを、都庁の業務調査により獲得していた。
都側が超高層を求めるコンペで、唯一となった磯崎の低層案は、「基本的にものの考え方がアナーキー」(青木淳談)な磯崎の気質のみによるものではなく、業務の実態にハコを合わせる、モニュメントではなくワークプレイスとしての機能的な都庁を構想した結果であった。
戦後民主主義と自ら設計する空間(例えばピロティ)を無理にでも結び付けようとした丹下と、磯崎は既に違う世界の住人であり、対決どころかすれ違うしかない。
バブルの後に何が訪れるか、当時の誰も知らなかった。都庁は当時の日本を覆っていた気分の見事なモニュメントであり、磯崎からみて無残な商業建築家であったとしても、それも含めて丹下は最後まで国家と時代を一身に背負い続けたのだと思う。



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