2008年06月19日

「強引な連想ゲーム」

今日の日経新聞の一面コラム「春秋」は、秋葉原の事件を派遣労働者の問題と結びつけようとする見方を、「強引な連想ゲーム」として非難している。
▼世界に知られる「アキバ」の原点は、ガード下にひしめく1坪ほどのラジオ部品屋の群れだ。新しい商売の拠点を勝ち取ったヤマチョーこと、故山本長蔵氏の功績を知る者は、今は少ない。最近では「フリーターが集う街」などと見られがちだが、原風景には想像を超える貧困や不安感と戦い克服した人々がいる。

▼狂気の事件を起こした男は派遣労働者だった。その境遇が「本人の精神的な不安定を呼んだ」とほのめかす閣僚もいる。秋葉原の惨事以来、派遣制度そのものを規制する動きが加速してきた。アキバ、オタク、ネット、ハケン……。強引な連想ゲームではないか。間違った部品を繋(つな)げた回路に心の電流は通わない。

犯罪は厳格に裁かれなければならないが、ここに典型的にみられる、「昔はみんな貧しかった。貧しい境遇を必死の努力で乗り越えて、日本は経済大国になったのだ。それに比べて今の若者は努力もせずに、、」という自己責任論が、今も多くの人に共有されている。だがこれこそが戦後の復興期と現在を「強引」に結びつける「連想ゲーム」に他ならない。
大手メディアでも平然と語られる戦後日本の復興・成長体験を基にした自己責任論が、今の日本の貧困を見えにくくしており、貧困への対策を遅らせている。何よりこうした論調が、「お前が悪いのだ」「努力が足りないのだ」と、貧困の中にいる人々の活力を削いでいることに、社会が気付かなければならない。

実はOECD加盟国のうち、日本の貧困率は第2位。貯蓄なし世帯が25%に迫る勢いで増加している。
OECDは、非正規雇用の拡大が格差拡大と貧困率増大の一因であると報告している。日本は既に貧困大国である。

日本で大学卒業までの子供1人の養育費は平均2370万円。日本のGDPに占める、政府や自治体が支出する学校教育費は、OECD30か国中29位で、生徒側が支払う学費は世界一高い。
それゆえ貧困は子供の教育の格差を生む。教育の不足は職業選択の幅を狭め、貧困が再生産され、格差は世代を超えて固定化する。政府のネットカフェ難民調査で、8割のネットカフェ難民の最終学歴が高卒以下であることが明らかとなった。

2006年6月、総務大臣であった竹中平蔵氏は「大問題としての貧困はこの国にはない」と言い切った。2007年末、彼は貧困の調査と対策をはじめて口にする。こうしたほんの数年前までの「貧困」への無理解は、竹中氏特有の問題ではなく、多くの日本人の共通した感覚を代弁したものに過ぎない。貧困の静かな拡大に、多くの日本人は気づかず、一部は気づきながらも気づかないふりをしてきた。政府は貧困に関する調査を本格的には行っていない。これは、「経済大国」「一億層中流」「平等の国」といったドグマに、多くの日本人が縛られていたことを意味している。戦後、比較対象としてきた国が常に格差大国たるアメリカであったこと、それに最近は中国が加わっただけであることも、「日本は格差が少ない」と思わせるに十分な効果を生んでいるだろう。

そして、安易な自己責任論が、努力しても貧困から抜け出せない人を、さらに「努力が足りない」と突き放し、彼らから生きる活力を奪っている。大手メディアをつくる人、大手メディアの中で語る人、彼ら彼女らの多くは成功者である。成功者は自分の成功を「運がよかった」とは決して言わない。全ては自分の才覚、自分の努力の賜物だ。彼らに「貧乏な人」は見えても、「社会問題としての貧困」は見えない。大企業のスポンサーへの手前もある。メディアには自己責任論があふれ、貧困に苦しむ人は発言する機会を奪われたままである。

正社員と無職との間にある、「非正規雇用」。定住とホームレスの間にある「ネットカフェ難民」。
政治や法律は、常に線引きをする存在であるから、こういった「中間層」は認知されづらい。無職の人への公的助成も、ホームレスへの公的支援も、かれら中間層は受け取ることができない。メディアも、中間から抜け出すのは自己責任であり、ぶらぶらしているだけだ、と。気づかないうちに、日本にこういった中間層が動かしがたい大きな層をつくり、皮肉なことにメディアに認知されるまでの勢力となった。

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』で、著者の湯浅誠は「貧困」と「貧乏」を区別する。経済力の不足を表す「貧乏」ではなく、教育、企業、家族、公的福祉から排除され、頼るものがない状態としての「貧困」こそが、大きな問題であるとする。
最後の頼みの綱として存在していると多くの人が思っている生活保護も、北九州市で有名になった「水際作戦」と呼ばれる福祉事務所が生活保護希望者を極力追い払おうとする対応で、生活保護の申請と受給は困難を極める。

貧困と格差が拡大すれば、非正規社員と正社員の対立、企業と労働者の対立、政府・自治体と市民との対立は激化し、その摩擦が社会全体を弱体化させる。
過労死する正社員と契約解除の不安におびえる派遣社員は、お互いを「気楽なものだ」と罵りあいはじめる。給食費を滞納した親と報告書に追われストレスが増える一方の教師は対立を深める。モチベーションの低い福祉事務所職員と生活保護申請者の互いの不信感は募るばかりであり、生活保護受給者とワーキングプアはお互いが贅沢だと非難することで、生活保護水準の切り下げという政府に都合の良い結論を導く。
貧困は犯罪を生み、犯罪者の厳罰化は著しい。不信感は全国を覆いつつある。

著者のいう社会の弱体化が、どの程度進行しているのかはわからない。
しかし、「今の日本、努力さえすれば最低限の生活ができる」、「ホームレスやフリーターは変わり者」、「仕事はある。探す努力が足りない」「生活保護があるんだから、最低限の暮らしは保証されている」といった意見は、もはや幻想でしかない。それでも今の道をひた走るのか、福祉国家へ舵を切るのか、どちらも困難な道程に違いない。
見えない貧困が姿を表わすにつれ、それを生んだ政治・政府への不信やあきらめが強くなり、「自分でやるしかない」という自己責任論を後押しして、格差を悪い形で拡大させている。自己責任という概念は極めて重要で不可欠なのだが、それは社会の諸条件の複雑さを隠蔽するために濫用されやすい言葉でもある。それを教えてくれる人はそう多くはない。
posted by ysms at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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