篠山紀信の写真に中平卓馬が評論で応じる『決闘写真論』
私ではなく、世界が語り始めるその瞬間をいかに組織するか、それがたったひとつの写真家の仕事である。世界が、事物がみずから喋りはじめるとの水路を切り開いてやること、眼の見えない人たちの世界、口のきけない人たちの世界に眼をあたえ、口をあたえること、それが写真家の仕事である。
リチャード・アヴェドンが、たくさんのものが写真に撮られたがっていると言ったのは、そのことではなかったのか。マルト・ロベールの『カフカ』に引用されたカフカの次の言葉をこのアヴェンドンの言葉と対比させる時、それらの言葉を発したおのおのの思惑を超えて、私にはことさらに興味深いものに思われる。
「お前が家から出かける必要はない。お前の机におとなしく座っていよ、そして耳を傾けよ、耳を傾けさえするな、ただ待て。待ちさえするな、黙ってひとりでいよ。世界はお前がその正体をあばくべく、お前に自分をさし出すだろう。世界は別のようにすることができない、恍惚となって、世界はお前の前でのたうちまわるだろう」(マルト・ロベール『カフカ』宮川淳訳)
こう語る中平卓馬が、篠山紀信を論じて本書は幕を閉じる。商業雑誌の表紙を飾る篠山の写真に、答えのない問いを発し続ける写真の極限を見出す。
篠山の写真に接する時、なぜか私は必ず時間ということを考える。すべてのものが他のものに対して等価であることを主張し、遠近法はなく、意味はない。
注目しておきたいのは、写真であるという以外のあらゆる枠組を篠山紀信が突破してしまったということである。変な言い方だが、彼によってカメラに捉えられたもの、それが写真である。まず初めに写真の美学を構成するマチエールだの、テクスチャーだのが踏みしだかれる。次に臨場感だの雰囲気が捨てられる。情緒的なもの、感傷的なものが放り出される。もはや読者は心地よい自分の寝ぐらをどこを探しても、この写真の中にみつけることはできない。そして篠山はいまあらゆる人間的なものが介入しうる余地、ひとが最後の救いを求める事物の陰影、事物のもつ暗がりをも追放しようとしているかにみえる。実際事物の陰影こそわれわれのまたとない寝ぐらである。
篠山の継続は、「写真の原点に帰ろうとする意志」だと中平は言う。原点とは中平の言ってきた植物図鑑としての写真である。事物がただそこにある。何の意味もないし価値もない。意味や価値を人間が与えようとすることは権力であり支配である。写真はそこから遠く離れて、モノと人がじかに触れあう回路を開く。
芸術の尾ひれをひっつけた写真を、単純に写真に還そうとする意志である。この時、篠山紀信の想定する写真とはあくまでも「外部」とかかわる写真である。内省とか、「自己に回帰する」哲学的な態度などが、我々が希求する自由とはなんの関係もなく、すでに在るこの世界を受け入れ、それに服従する形而上学的な逃避となることを篠山は知っている。(中略)「内部」――主観とか主体とか呼ばれるもの――がないのではない。「内部」とは「外部」との闘い、緊張抜きに在るのではない。アンドレ・ゴルツが言う通り「自由は外部に、物の傍にあるのだ」。
「僕の写真が大芸術だといわれて、芸術院会員にしてくれるならすぐなるし、芸術賞くれるといえばすぐもらう。でも、そんあことはどっちでもいいんですよ」と言う篠山の強さに、中平は最後まで追いつかずに決闘は終わる。篠山を批判するものがいても、篠山に勝つものはそういない。その力をまざざと見せ付けたのだから『決闘』という本書のタイトルは残酷なほど正しい。篠山論を書いてほどなく、中平は言葉と記憶を失う。意味や価値を超えて生きる困難を誰もが躊躇する。その一歩を超えた彼を誰も救うことはできないし、カメラがある以上感傷は不要である。
中平が「カメラになった男」だとすれば、篠山はもとより「カメラ以外であったことが一度もない男」である。篠山は「自分の肉体をでっかい眼球」にして、今日も元気に撮り続ける。
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