幕末維新期が日本人に愛される理由の一つに、指導者の多様さが挙げられるだろう。
誰が維新を成し遂げたのか、実のところ不明である。松陰も竜馬も西郷も大久保も勝海舟も、あるビジョンを持ち、ある時期に現れ、志半ば、ある時期に去る。
幕末維新期を通じてリーダーシップを発揮し続けたカリスマはいない。それぞれの指導者が異なる国家ビジョンを持ちながらも連携し、新政権を樹立したという不思議なプロセスの仔細は、多くの小説、テレビドラマや映画の題材となりながらも、一般的に理解されているとは言い難い。複数の指導者の存在のみならず、指導者達がその都度国家目標を変更し、連携の相手も変えながら維新が進む。
直線的な歴史理解では捉えきれない維新期を読み解くために、『
明治維新 1858-1881
』の二人の著者は「柔構造」という仮説を導入する。
さて、ここでなぜ武士たちが自らの地位の拠り所である封建制度や身分制度を破壊するような革命を強行したのかという疑問がわいてくる。その答えは、当初はそのような過激な変革は意図されておらず、むしろ旧制度の枠内で外圧に対峙しうる政体を再編することがめざされていたというものである。ゆえに彼らはエリートとしての使命と誇りに燃えてその任にあたったのであった。それが体制の否定にまで突き進んだのは、欧米思想による覚醒、幕府との政治闘争、中央集権の必要性、明治初年の旧勢力(公卿・藩主)の保守性などがあいまって、新政権の確立と維持のためには所期の目的を大きく逸脱する行動が不可欠となったからである。政治改革を意図してはじまった運動は、ついに政治革命にまでおよんだのであった。
一橋慶喜を将軍に推した薩摩藩が後に徳川軍を攻撃する。尊皇攘夷の急先鋒である長州藩が開国進取の旗手となる。征韓論で下野した板垣退助が議会設立運動を起こす。富国強兵が後に富国と強兵に分かれる。著者は一見すると優柔不断なこれらの事象を「場当たり的」と断じることなく、その「柔らかさ」の力に着目する。
開発経済学を専門とする著者の大野が、東アジアの戦後の開発プロセスと比較して浮上する明治維新期の特異性と、坂野の長年の近代政治史研究(『
未完の明治維新
』)を重ね合わせて得られた炯眼であろう。明治日本は誰かの明瞭な国家観に基づいて築かれたのではない。国家を混乱させ、破壊してはならないという共通の理解に基づきながら、指導者、国家目標、連携のあり方、全てのことを必要に応じて変えることができる柔らかい精神が、結果的には史上稀有な革命を成就させた。著者は薩摩藩の組織文化に、代表的な「柔らかさ」を見る。
その好例として、薩摩藩軍事奉行であった伊地知正治に注目する。彼は軍事面での有能なエキスパートであったが、政治改革構想においても、西郷、大久保らに引けをとらない。
島津久光や大久保の主張した「辞官納地」(徳川家が官位を辞し、800万石の領地も朝廷に返上する)にも真っ向から反対した。
西郷や大久保は、伊地知の意見を退け、慶喜に辞官納地を強要し、耐えかねた徳川軍はついに挙兵する。徳川軍を鳥羽、伏見で迎え撃った薩摩軍の総監軍は、ほかならぬ伊地知であった。
「問題に関する意見の相違が行動における分裂をもたらさなかったことは、幕末薩摩藩の強みであった。藩内の意見の多様性は、幕府や他藩の指導者との交流網を多様化する。
群雄が割拠する幕末政局を念頭に置けば、この多様性と凝縮性が、薩摩藩に他の追随を許さぬ力を与えたことは想像に難くない。」
また、薩摩藩士たちの筆まめさについてもページを割いて検証する。
1859〜68年の10年間に西郷から大久保に送られた手紙は114通。吉井友実からは29通。小松帯刀は97通。伊地知は32通を大久保に送っている。
大久保にしてみれば、61年以降8年間で267通を受け取っている。
一緒にいる間は手紙を書かない。京都、江戸、薩摩との間で書いても到着は1週間を超えることから、圧倒的な筆まめさが彼らの情報共有や連帯を支えていることがわかる。
藩内の多様な意見。独断専行とチームワークのバランス。
薩摩藩が育み、薩摩藩士を通じて雄藩に伝播した、柔らかく開かれた精神が、途中の幾多の難局を乗り越えた力であろう。
一人のリーダーから時代を眺めた方が、誰もがわかりやすく、小説やドラマでは「主人公が必要」という限界を超えることができない。
明治維新期に特定の「建国のカリスマ」を求めるのではなく、指導者たちの柔らかいネットワークとそれを支える幕藩文化に着目することで、本書を直線的な歴史理解から解放している。