彫刻家の舟越保武が、耳の不自由な松本竣介の後ろから声をかけたところ、「何だ?」といって戻ってきたというエピソードがある。
耳の不自由な画家がなにか霊気にふれたかのごろくふりむくその姿は、わたしにとって恐ろしく神秘的である。そしてまた、そのふりむく眼差しには棘はなく、心を通わせてきた友情にひろい空間をいだいていたというようにもうけとれる。童顔のかおだちのせいばかりではない。舟越氏は澄んだ声で返事したと書いているが、これはむしろ画家竣介の人間の全体からうけるひとつの印象といってもいいだろう。他者に対して自己の存在をきわめて明確なものとして印象づけるのは、自分のなかに他人には想像もできぬような不安の感情がうずまいているからにちがいない。音の世界から遮断されたものは自己の内部の不安におびえ、また、うなり続けているであろう外界の音を予感していては、生命すらあやぶまれることもしばしばあったろうと思う。実際に耳をふさいで街を歩いてみればよい。(「暗い歩道に立つ―松本竣介」『早世の天才画家』酒井忠康著)
著者は日本近代絵画史の「近代」とは、遠近法における中景の不足を埋めることであり、中景が近代そのものであったとする。そして、竣介は中景に「自覚的に身を寄せて」いた画家であった。
絶望的な遁走といえば、大げさにきこえるが、並木路のある歩道石のがっしりとした塀は、まるで牢獄の外壁のような印象をあたえる。画家の心象をものがたっているらしい帽子をかぶった黒い人物に声でもかけてみたい衝動にかられ、わたしはかつて竣介のヒューマニズムの影であろうと形容したことがある。(中略)都市の風景と慮工面することによって、固有の不在圏を画布に塗り込めた松本竣介でありながら、それはついに断念の思いにもつながっているという逆接をもこの《並木道》はものがたっている。声をかけてみたいという衝動は、けっして画布を告発の戦場にはしなかった画家の、本当の理由を訊いてみたいとの思いにかられるからであるが、おそらく添景の人物は無言のままに通りすぎてゆき、川沿いの一隅で都市の廃墟を予感し、橋の上で日の暮れるのをまっているのにちがいない。(同上)
画家の抵抗は、良心や創作を踏みにじる時代を声高に告発するものではなく、内なる絶対不可侵の領土を守り続けることであった。領土を無傷のまま死守することと、感覚を研ぎ澄ませて外界の音を聞くことを、稀有な回路で支えたのが、モディリアニに学んだ松本竣介の稀有な黒い線であった。



