2011年12月27日

私たちは、私たちは学ばないということを私たちは学ばないということを自然とは学ばない


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We do not spontaneously learn that we don't learn that we don't learn. The problem lies in the structure of our minds: we don't learn rules, just facts, and only facts. Metarules (such as the rule that we have a tendency to not learn rules) we don't seem to be good at getting. We scorn the abstract; we scorn it with passion.

"The Black Swan: The Impact of the Highly Improbable" by Nassim Nicholas Taleb

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2011年09月21日

故郷

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故郷は、故郷を離れて生きている人間の背中を、 彼自身に見えるようにしてくれる。
中村真一郎 『夜半楽』

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2011年06月17日

記憶なく欲望なく

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「記憶なく欲望なく no memory, no desire」という言葉は精神分析の世界できわめてよく口にされる言葉である。1979年に亡くなった、フロイト以後の精神分析において、おそらく屈指の革新的思索者である英国の精神分析家ウィルフレッド・ビオンが短いエッセイの中で使った言葉である。
このエッセイでビオンは、分析化は前のセッションのことを記憶していてはいけない、と言った。すべてを忘れていなければいけないのだ。そして、患者を理解しようとか変化させようとか治癒させようとかを欲望してもいけない、と言った。ただ、できごとの進展に向かっていかなければならないのだ。もちろん、前のセッションをまったく忘れ去ることはできない。目前の患者の苦しみに対して何とかしてやりたいという望みをまったくもたずにいることもできない。この「記憶なく欲望なく」という言葉はしたがって達成不可能なことを語っている。だがそれにもかかわらず、この言葉は精神分析の本質をついている。
過去を記憶すること、未来を欲望すること、そのいずれもが、精神分析の過程、精神分析というできごとの成り行きを妨害するのである。いまここで起きていること、そこで起きて生じる心的な事実、感情や不安にこそ、精神分析過程は姿を現す。精神分析は、患者の話を聞いてそれを理論に沿って解釈するようなことではない。まったくそれとは正反対に、二人のあいだでその場で起きるできごと、とりわけ情緒を含みこんだできごとを十分に体験することから始まるのである。そうしたとき、記憶や欲望は邪魔になる。その場のできごとに十分触れることを邪魔してしまう。

藤山直樹「「居残り」というできごと」
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2011年06月06日

stay eager

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Do stuff. Be clenched, curious. Not waiting for inspiration's shove or society's kiss on your forehead.... Pay attention. It's all about taking in as much of what's out there as you can, and not letting the excuses and the dreariness of some of the obligations you'll soon be incurring narrow your lives. Attention is vitality. It connects you with others. It makes you eager. Stay eager.
- Susan Sontag

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2011年04月06日

逃走について

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生きることは選ぶことであるから、無数の可能性を犠牲しなければならず、決して実現されざるこれらの可能性がわれわれを逃走へと誘う、という事実が逃走なのではないのだ。排斥し合うことなき複数の可能性の実現を容認する、普遍的で無限な実存の欲求も、自我の根底にあってすでに実現された平安を、つまり存在の受容を前提としている。自我の自己への緊縛を断つことを希求するものである以上、逃走は逆に、自己とのこうした平安をこそ問いただすのだ。逃走は存在そのもの、『自己自身』から逃れるのであって、存在に課せられた制約から逃れるのではない。逃走において自我は、自分がそうではなく、また、決してそうはならないだろうもの、すなわち無限と対立するものとして、自己から逃れるのではなく、自分がそうであり、そうなるであろうものそれ自体と対立するものとして、自己から逃れる。

エマニュエル・レヴィナス「逃走論」



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2011年04月05日

永遠の一角

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青空深く、木々の枝がのびあがっていた。緑の葉の一つ一つがひっそりと宇宙にふれあい、ふるえているようだった。そこが吃水線にみえた。すぐそこに世界の果て、無とふれあう波打ち際があった。ならば、ここは異郷でもなんでもなく、なんの変哲もない、永遠の一角にすぎない。だとすれば自分は孤独でもなんでもない

宮内勝典『焼身』



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2011年02月28日

翻訳について

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わたしはあることを報告しようと試みる。ふとわたしは黙りこむ。そのとたん、わたしは自分がまだ全く何もいっていないことに気づく。ある驚くほど明るい、粘つく実体がわたしの内部に残留して、言葉を嘲笑する。それは、かの地でわたしに理解できなかった言語、これから徐々にわたしの内部で翻訳されなければならぬ言語であろうか?そこには、われわれの内部において初めて意味が生ずるような、さまざまの出来事や光景や音があった。それらは言葉によっては拾いあげられることも刈り込まれることもなかった。それらは言葉の域を越え、言葉よりも深みがあって複雑である。

カネッティ『マラケシュの声』


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2011年02月05日

壁を貫く

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「ゴッホの手紙」より

素描とは何だ?どうやって習えばいいのか?それはわれわれが感じることとわれわれにできることとのあいだに立っているように思える目に見えない鉄の壁を貫ぬいて仕事をして行くことだ。どうやったらその壁を貫ぬき通せるのか―その壁に挑んでも無益だとなれば?ぼくの考えでは、壁の下を掘って、ゆっくりと根気強く穴をあけるほかない。 第274信(旧237)



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2010年12月28日

死者たち

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そう、新聞の言うとおり、雪はアイルランド全土に降っている。雪は暗い中部平原のいたるところに降り、木々のない丘に降り、アレンの沼地にひっそりと降り、さらに西のかた、暗く立ち騒ぐシャノンの河波にひっそりと降っている。雪は、また、マイケル・フュアリーが埋もれている丘の上のさびしい教会墓地のいたるところに降っている。雪はゆがんだ十字架や墓石の上に、ちいさな門の穂先の上に、不毛ないばらの上に、深々と降り積っている。彼の魂は雪の降る音を耳にしながら、しだいに近くを失っていった。雪が、かすかな音を立てて宇宙に降り、最後の時の到来のように、かすかな音を立てて、すべての生者たちと死者たちのうえにふりそそぐのを耳にしながら。
ジョイス「死者たち」(『ダブリン市民』所収)




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2010年11月30日

切実であること

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中平さんは倒れることによって大きな犠牲をはらって写真のスタイルをチェンジすることができた。しかも自分の宣言通りの方向に。それは本当に奇跡のようなことだと思う。中平さんの昔の、例えばプロヴォーク時代のアレブレボケの写真を評価する人は多い、だってそりゃ確かですもん、しかしボクは中平さんの今のカラー写真のほうが価値があると思う。
そして強調したいのは論理的なまとまった形での文章は失われてしまったが、中平さんの言葉はいぜん凄く美しいということだ。(中略)武田百合子さんは「簡単に美しいとか綺麗とかって言葉は使わないようにしたい、ちゃんとどう美しいか書こうと思う」とおっしゃられていて本当にそうだと思うが(常々念頭に入れているのだが)。あえて言いたいのだ。美しい、と(人によってそれは凄まじいと表現するのかもしれない)。そして切実だと。こういうときボクは本当に写真家でよかったと思う。ボクは上手く言葉でその美しさを形容はできない、しかしその切実さを写真でちゃんと人に伝えられると思うからである。

ホンマタカシ「きわめてよいふうけい 2010年の中平卓馬」

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2010年11月17日

歩いている

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歩いている男に絶望は存在しない、ただ本当に歩いてさえいれば、そしてたえず振り返っては他人とつまらぬおしゃべりに興じ、同情し、目立とうとするのでなければ。
『パリの廃墟』ジャック・レダ



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2010年11月11日

秘密の約束

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過去はある秘められた索引を伴っていて、それは過去に救済(解放)への道を指示している。実際また、かつてありし人々の周りに漂っていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることもなかった姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちとの間には、ある秘密の約束が存在していることになる。だとすれば、私たちはこの地上に、期待を担って生きているのだ。

ベンヤミン『歴史の概念について』


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2010年10月27日

期待の終わり

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いつから彼は待つことをはじめていたのか?彼が個々の事物への欲望や事物の終末への欲望すらもなくしてしまって期待に対して自由な身になって以来だ。期待は、もはや期待すべきなにものも、期待の終末さえもないときにはじまる。期待は、それが期待するものを知りはしないのだ。
ブランショ 『最後の人/期待 忘却』豊崎光一訳


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2010年10月04日

眼華

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眼華という言葉があるのかどうかはあやふやだけれど、何かの書物を読んでいてその言葉を見つけたのだ。それは突如として視界の中に欠落が生じ、物のかたちが欠けて見える状態を言うのだ。その時目の周辺には隈どるような花弁に似たちらつきがあらわれ、ちかちか光りながら廻りはじめる。花弁というよりは歯車といった方が当たっているかも知れない。完全な輪が結ばれているのではなく、どこかが欠け、はじめは小さく鮮明なのが次第にその輪を大きく広げぼやけてきて、やがて後頭部にしりぞく感じになって消えてしまう。


島尾敏雄著『魚雷艇学生


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2010年09月16日

固有名をめぐって



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ふと知らないメロディーを聴いて「ああ、これは何だろう」と惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように美しい映像に惹きつけられて「ああ、これは何だろう」と人々に思ってもらえるような映画を作ってみたい。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも一年間くらい絶対に固有名詞を使わず、単に彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人々は名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディーに惹きつけられるように事件に対して別の接し方ができるかもしれません。(J.L.ゴダール)



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2010年09月14日

時間を消す


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時間というものには、ふたとおりの数えかたがあるように思われる。ひとつは、一から始まってこれに、無限に一単位(年でも秒でもいいが)ずつ加えて行くやり方で、私たちはそのようにして、小刻みに未来を生きている。もうひとつは、たとえばロケットの打ち上げの時の秒読みのように、あらかじめ未来へ区切った時点へ向けて、一単位ずつ時間を消していくやり方である。残り時間がゼロになったときそれが起こる。未来が終るのである。戦争中、私たちに可能であったのは、ただ後者の数え方であり、戦場から兵士が書き送る書簡の一つ一つは、このようにして消去されて行く時間の確認にほかならなかったのである。

『海を流れる河』石原吉郎著


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2010年08月23日

思考の胎児

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私の思考が無傷で生まれてくることは滅多にない。生まれた時それはどこか曲がっているか折れている。さもなくば思考は総じて早産であって、まだ言語のなかで生きてゆく力がない。その時、小さな命題の胎児が生まれるが最も重要な手足はまだそろっていないのだ

『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』




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2010年08月18日

無の判事

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『ブラッド・メリディアン』の判事が文学史に残るキャラクターであることは疑い得ないが、彼の哲学は『血と暴力の国』の殺し屋とも違う。判事は文字通り判事であり、殺し屋は殺し屋でしかない。殺し屋は誰かをある摂理に基づいて殺すが、判事はその摂理を裁く。検事も弁護人も殺し屋も、全てを裁き、彼らの論理を無に帰すことができる力を持つ。殺し屋の「悪」に対して、言わば「無」にそのまま人の形を与えたものがこの作品の判事であり、残虐さも教養も、彼の肉体も言葉も過剰であるほど、人はそこに吸い寄せられる。読者もろとも底知れぬ「無」へ一直線に追いやられ、判事はそれを横目にダンスを踊り続ける。

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われわれの関心事はダンスでありダンスはそれ自身のうちに手順と歴史と最終場面を持っているのだから踊り手が自分のなかにそれらを持っている必要はない。いずれにせよすべての歴史はそれぞれの歴史とは違うしそれぞれの歴史の総和でもない以上ここにいる人間の誰も自分がいる理由を理解することが最後までできない、というのもこの催しの本質がなんなのかすら知り得ないからだ。



儀式では血が流れることが不可欠だ。この要素を欠く儀式は儀式もどきにすぎない。偽物はすぐ見破られるものだよ。それは間違いない。子供時代を振り返ると家族がみんな出かけて一人で遊ぶしかないという寂しい思い出が誰にもあるだろう。対戦相手のいない一人だけの競技。その規則は自分の考えでどうにでも決められる。さあ眼をそらすんじゃない。これは謎めいた話じゃないんだ。ほかの人間はいざ知らずお前はこの寂しさや虚しさや絶望感と無縁ではないはずだ。われわれはそれと戦っているんじゃないのか。血こそは人間同士の絆を固める漆喰の練り具合を最適のものにする材料じゃないのか。判事は身を傾けてきた。死とはなんだと思うかな、君(マン)。前はいたが今はいない人間とはいったいどういう存在なんだ。これは考えても仕方のない謎なのかそれとも誰の管轄事項にも含まれる事柄なのか。死とはある力の作用ではないのか。その力は誰に向かって作用しているのか。さあ私を見ろ。



あの男の世界観はわかるだろう。顔や姿勢から読み取れるからな。だが人生はままならないというあの男の不満は本当の不満を隠している。実際にはほかの人間たちが自分の願うとおりにしてくれないという不満なんだ。今までもそうだったしこれからもそうだろうという。あの男はそうなのであって人生が困難に見舞われ意図していた形とは違ったものになったせいで歩くあばら屋にすぎなくなりおよそ人間の精神が住まうところではなくなってしまった。こういう男が、自分に害をなしているものなど存在しないと言うだろうか。自分の不幸にはどんな力も作用も原因も働いていないというだろうか。作用も請求者も疑えるというのはどんな異端者なんだ。あの男は自分の人生の破滅が強いられたものでないことを信じられるだろうか。そこに抵当権はついておらず債権者もいないことを。復讐の神と慈悲の神がともに穴倉で眠っていてわれわれの叫びが経理のためであれ帳簿の廃棄のためであれ同じ沈黙を生じさせるしかなくその沈黙だけが残るのだということを。彼は誰に話しているんだ。彼の姿がお前には見えるか。



人は自らの運命を探し求める、と判事は言った。意志がなければ無だ。自分の運命を知った者がそれとは反対の道を選んだとしても結局は同じ指定の時間に同じ精算をすることになる、というのも各自の運命はその者が住んでいる世界と同じだけの大きさを持っていてそのなかにすべての可能性を含んでいるからだ。多くの人間が破滅した砂漠が広大でそれを受け入れるには大きな心が必要だがしかし砂漠は結局のところ空っぽでもある。それは硬くて不毛だ。その本質は石なんだ。



だがともかく今の答えはこうだ。血みどろの戦争に自らのすべてを捧げた者、闘技場に立って恐怖を体験しその体験が自分の心の最も深いところに語りかけてくると知ったものだけが、踊ることができるんだ。


 



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2010年08月16日

問いかけ

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哲学とは、問いを提起し、この問いに答えることで、欠けていた空白部分が少しずつ埋まっていくという性質のものではない。問いとは、人間の生と人間の歴史の内側に属するものであり、ここで生まれ、ここで死ぬ。問いに解答が見つかると、問いそのものが姿を変えてしまうことも多い。いずれにせよ、空虚な欠落部分に到達するのは、経験と知の一つの過去である。哲学は文脈を所与のものとして受け取ることはない。哲学は問いの起源と意味を探るために、答えの意味、問い掛ける者の身分を探るために、文脈に立ち戻る。そしてここから、すべての知識への問いを活気づけている<問い掛け>へと至るのである。<問い掛け>は、問いとは異なるものなのである。
(メルロ・ポンティ「問い掛けと直観」、『見えるものと見えないもの』より)



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2010年08月10日

残躯

馬上少年過 世平白髪多 残躯天所許 不楽復如何

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やがて、大阪の陣が終って、死期を知った家康に後事を託される。その辺りから、政宗は、戦っていたのが実は時の流れという眼に見えぬ大敵であった事を、はっきり知ったのではあるまいか。私は、そんな事を思った。
暗い、込み入った、油断も隙もなかった生活を、彼は、「世は平かにして白髪多し」という簡明な文句で要約してみた。一体、要約はできたのだろうか。「残躯は天の許すところ」――彼が残躯という言葉を思い附いた時、この言葉は、彼の心魂に堪えたであろう。この詩の季を春としても差し支えあるまい。残躯は桜を見ていたかも知れない。「楽しまずんば復如何せん」
(「花見」小林秀雄)





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